鬼麟
「授業、なんてありましたっけ?」

 あってないようなものだと、彼も言っていたのを思い出し切り出せば、それもそうですねと返される。なんだか期待外れのその応え。

「では、先に言っておきましょう」

 何の脈絡もなくそう言った先生の表情に笑みはなく、研ぎ澄まされた空気が肌を刺す。その空気に乗せられて、眉を顰めるが彼はそのまま口を開いた。

「俺如きでは、あなたには勝てません」

 一体、何の話をしているのか。
 何を言い出すかと思いきや、その言葉の意味を測りかねて様々な考えが脳裏を過ぎる。

「篠原さん……いや、鬼麟。そう呼ぶべきでしょうか」

 手からすり抜け、本が床へと散らばる。
 いくつものなかで、何よりも最悪なそれ。あまりにも露骨に反応してしまったが、彼は落とした本に一度視線を向けただけで、その反応すらも予見していたようだ。
 先生が予測を確信へと変えたのを読み取り、私の表情がさらにこわばる。
 もう誇ることのできない、自身の名をを呼ばれた。それだけのことなのに、あまりにも滑稽に、無様に動揺と狼狽を見せてしまう。
 情けない。そうは思っても、彼を確信へと導いたのは自身の反応だ。
 否定すればきっと、そうですか、と彼は納得したはずだ。たとえそれが上辺だけのものであろうとも、彼はそこに踏み込むことはしなかっただろう。そのための予防線まで張ったのだから。
 けれど、安易に否定できる名ではないと自分が一番良く知っているが上に、この沈黙が続いているのだ。本を拾うことさえ、ましてや指一本動かすことさえ躊躇いが生じる。
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