その鍵で開けるのは
大学の西校舎4階。
廊下を抜けたその先に、わたし達ふたりの秘密の場所がある。

周りに誰もいないことを確認すると、逸る気持ちを抑えて重い扉をゆっくりと押し開けた。
そこは非常階段の踊り場。

「ああ、早かったな」

先生はわたしに気づくと、口元に小さな笑みを浮かべる。
オレンジの西日を背に少し強い風に白衣をはためかせ、彼は立っていた。
まるで映画のワンシーンのような光景に、思わずどきりと心臓が高鳴る。

「悪かったな。わざわざ」
「い、いえ。全然」

はっとして、自分のポケットの中にあったUSBを先生に差し出す。

「これですよね?」
「サンキュ。そうそう。これで間違いない。
 お前が家まで取りに行ってくれて助かったよ。今日中に教授に出さなきゃいけないのに、取りに帰る時間がなくてな」

「いい子いい子」と、先生の大きな手がの頭を撫でる。
子供扱いされているようで悔しくもあるけれど、この優しい感触が嫌いではないから困る。

「お役に立てて良かったです。あ、あとこれもお返しします」

ポケットから取り出したのは、先生の家の鍵。
いつもはシンプルな黒い革のキーケースにつけられているそれは、今日はなぜかクマのキーホルダーがついている。

(学生にいたずらでもされたのかな?)

そう思ってもあえて突っ込まないのは、嫉妬しているのを知られたくないから。

(だってこのチョイス、絶対女の子だし……)

「ん? ああ、鍵な―……」

受け取った鍵を眺めながら、先生がなにか言いにくそうに首の後ろに手を添えた。

(どうしたんだろう?)

先生らしくない様子に首を傾げる。

「なんですか?」と聞こうとしたその時――

「きゃっ……!」

不意に吹いた強い風に、足元がふらつく。

「おいっ……!」

先生の声が聞こえたかと思うと、急に強い力に引き寄せられる。
次の瞬間に感じたのは、全身を包むような温かさ。

「せん、せい?」

気づくとわたしは先生の腕の中にいた。

「ったく、あぶねぇな。俺が抱き留めてなかったらお前落ちてたぞ」

見上げると、先生の顔がすぐ傍にある。
風から助けてくれただけだとは分かってはいるけれど、わたしの腰に回された腕の力強さとぬくもりに、鼓動はどんどん速さを増していった。

「あ、ありがとうございます……!」

心臓の音が聞こえてしまいそうですぐに離れようとするけど、先生の腕は強くわたしを抱きしめたまま動かない。

「あの、先生……?」
「んー?」
「ん-?じゃなくて、その……」
「……お前、この後用事は?」
「え? 特にないですけど……」
「じゃあ、問題ないな。もう少しだけこのままで……」

甘えるような声が、熱く首筋をくすぐった。

「いいだろ?」

熱っぽい視線でのぞき込まれては、返す答えはひとつしかない。

「はい……」
「ははっ、お前はいい子だな。本当に」

そう言っての頬を撫でる先生の手は、先ほどと頭を撫でた手つきとはどこか違う。
触れられたところが熱くて、そこから溶けてしまいそうだった。

頬から滑り降りた指が、わたしの顎にそっと持ち上げる。
ゆっくりと近づいてくる先生にあわせてまぶたを下すと、指よりも熱いものが唇に触れた。

「んっ……」

最初は重ねるだけ。そして角度を変えて何度も何度も――キスは触れる度に深く激しくなっていく。

「ん……っは、ん」

息もできないほどの激しさに苦しくて涙がこぼれた。
それでも不思議なことに、止めて欲しいとは少しも思わない。

「ん、はっ……」

時折漏れる先生の苦し気な息遣いが、わたしを求めてくれる証拠だと思うと嬉しくて、強請るように先生の首に腕を伸ばした。


「……ちょっと、やりすぎたな。悪い」

やがて名残惜しそうに顔を上げると、、先生はわたしの濡れた唇を親指で撫でる。

「っ……せんせ……ぇ」

謝らないでと言おうとしても、荒くなった呼吸が邪魔して上手く喋れない。

「大丈夫か?」

返事の代わりに頷いてみせると、先生はくすりと笑った。

「俺はもう行かなきゃならないけど、お前はもう少し落ち着いてから帰れ」

もう一度頷いたわたしの頭を、先生は優しく撫でる。

「じゃあ、気を付けてな」

踵を返して歩き出した先生が、何かを思い出したかのように振り返る。

「っと……忘れてた。これ」

先生が差し出したのは、先ほど返したばかりの鍵だった。

「これはお前にやる」
「え?」
「合鍵だ。これで好きな時にうちに来て、俺を待っていてくれると嬉しい」
「先生……」

嬉しさがこみ上げて言葉が詰まる。
見上げると、照れ臭そうに笑う先生と目が合った。

「ってか、キーホルダーの時点でお前のだって気づけよな」
「! じゃあこれ、先生が買ったんですか?」
「…他に誰が買うんだよ」

(一体、どんな顔で買ったんだろう…?)

眉をしかめながら、けれど一生懸命選んでくれている姿が想像できて、笑みと同時に喜びがあふれてくる。

「ありがとうございます……あの、今日さっそく使ってもいいですか?」
「さっそく?」
「今日、これをつかって、先生の部屋で待っててもいいですか?」

一瞬驚いたように目を見開いた先生の表情が、ゆっくりと優しい微笑みに代わる。

「ああ、なるべく早く帰るから」
「じゃあ、ご飯作って待ってますね」
「お前は本当にいい子だな。楽しみにしてるよ」

先生は今日だけでも何度目かになるその言葉を口にしながら、わたしの額に触れるだけの口づけを落としたのだった。
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