名無しのヒーロー ~シングルマザーは先生に溺愛されました~
 後産のために分娩室から出された後、フラフラと歩きだす。
 頭の中が真っ白になっていた。

 いったい何が起きたんだろう?

 この世に産まれて、初めて上げた泣き声は力強く、今も耳に残っている。
 未来へ続くたくさんの希望の糸を掴むように固く握った小さな手。
 生まれ出たばかりの命は、小さく弱い存在なのに光り輝くような力を秘めていた。

 体の中の血が沸騰するような衝撃。

 ”生きる”

 その現場に遭遇して生きている事の大切さを改めて考えさせられる。

 過去の悲しみに囚われ、生きているのに心を凍らせて死んだような日々を過ごしている自分。
 それは、生きたいと願っていたのに叶わなかった亡き妻をも悲しませる行為ではないだろうか?

 どれだけの時間が経ったのか。
 気が付けば、暗い夜が終わり空が明るくなり始めていた。
 冬空の中、吐く息は白いのに茜色に染まる空が広がり、心の奥が温かい。

 日が昇り、朝霜に反射した木々が輝き出す。
 見える世界は鮮やかに色を持ち、私の瞳に映る。

 顔を上げ、歩き始めた。
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