ピアニスト令嬢とホテル王の御曹司の溺愛協奏曲
「はあああ……」

 重いため息が静寂の中に溶けて消える。
 ここは、ピアノコンクールの出場者に割り当てられた控え室。
 つい先ほどまで行われていた表彰式がつつがなく終了し、身支度のために戻ってきたところだ。

「こんなはずじゃあなかったのに……」

 ぽろり、と涙がこぼれ落ちる。
 悔しさ、悲しさ、そして不甲斐ない自分への強い怒りが綯い交ぜになって私の心を苛む。

 母に憧れてピアニストになると決めてからの歳月、私はピアノに命を賭けてきた。そう言い切れるだけのことをしてきた自信はある。
 ピアニストというものは並大抵の覚悟でなれる職業ではない、というのはピアニストの母を見てきた私が一番よく分かっていたつもりだ。
 だから、これ以上はないというくらい生活の全てをピアノに費やしてきた。
 一日十時間以上の練習なんてざらで、それをほとんど毎日休まずに繰り返した。高名な講師の指導を仰ぎ、指摘されたことは徹底的に改善してきた。
 子どもらしく遊ぶこともほとんどせず、もはや鍵盤が友達というような状態。
 だが、苦だと思ったことはなかった。ピアノが好きだという気持ちが根底にあったからこそ、そこまでストイックになれたのである。

 母親譲りの才覚と私自身の努力が噛み合ったのかすぐに頭角を現し、「天才ピアノ少女」としてマスメディアに取り上げられるようになった。
 もちろん、「世界的ピアニスト・一条都の娘」であるがゆえに注目されたということは否めない。だが、私自身でも天才少女と持ち上げられるに足る結果を出した自負がある。
 小学六年生までが対象のピアノコンクールを小学二年生で制したことを皮切りに、数々の子ども向けピアノコンクールで優勝した。
 最年少優勝記録を打ち立てたコンクールもあるし、年長者向けのコンクールに特例で出してもらって優秀な成績を収めたこともある。
 既存の曲の演奏はもちろん自作曲の楽曲にも定評があり、作曲家になることを勧められたりもした。

 私は間違いなく、将来を嘱望されるピアノ少女だった。

 その勢いのままに名門音楽大学に入学し、さらにピアノ漬けの生活を送った。
 日本を代表するピアニストの一人である唯川英里紗(ゆいかわえりさ)教授に師事できたことは僥倖だったと思う。
 彼女の厳しくも的確な指導で実力を伸ばし、ウィーンの名門音楽大学への留学を果たした。
 そこで世界最高峰の教授陣から演奏法や作曲法などを学べるだけ学んで、さらにレベルアップして帰国した。
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