エリート弁護士は契約妻と愛を交わすまで諦めない
朔は今日も帰ってくるの遅いのかなと不意に振り返ったら、リビングに続くガラス戸が開いていた。いや、開けられていた。思い焦がれていた朔がそこに立っている。
「さ、朔」
気づかなかった。いつ帰ってきたのか。慌てて駆け寄ると、彼は手元のスマホを見遣る。
「誰?」
「か、会社の人。上司で……」
説明してようとしたら、朔がスマホを私から取り上げる。神崎さんの『前田さ~ん?』という声が漏れ聞こえてくるのを迷いなく通話を切った。朔の切れ長の目がゆらりと私へと移る。
「わざわざ寒空の下で電話しないといけないほどの理由がある上司?」
「そ、それは訳が……」
京子さんがお風呂に入っている隙に神崎さんに電話した。念には念をと風が吹き付ける真冬のベランダに出たわけだ。その気遣いも風の音と神崎さんの声で朔がガラス戸を開けるのに気づけなかったのだから無意味と化す。
どこから説明すべきか。神崎さんのこと朔に話していいのか。私からよりも京子さんからきちんと紹介を受けるべきだと思う。
でも、今、激しく誤解されているのはまずい。まずいことはわかっていても、混乱して言葉がうまく出てこない。
ただ視線を彷徨わせる私の手を朔が掴んだ。
「冷えてるから、中はいるぞ」
「さ、朔」
言い訳をする前に有無を言わせぬ力で部屋の中へと引っ張り込む。呼んでもこちらを見ないから、不安だけが胸に積み重なっていく。
「お前、もう仕事やめろ」
「え?」
「俺が働いて十分生活できるだろ」
「わ、私は今の仕事してて楽しいから、できれば続けたいんだけど……」
機を見て話そうと思っていたことが、緊迫した空気で言うことになり辿々しくなる。
最悪のタイミングだ。でも、誤魔化すところでもなく、正直に伝えるしかない。
朔は私の言葉を受けてハッと息を吐いて笑った。


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