白いシャツの少年 【恋に焦がれて鳴く蝉よりも・番外編】
頬にあった温もりが、するりと肩に移る。
「そう」と呟くように声を漏らすと、母
は千沙の耳に顔を近づけた。
「あなたがそこまで言うなら……。でも、
これだけは憶えていてね。あなたは一人
じゃない。智花だって、お母さんだってい
るのよ。みんなで考えれば難しいことだっ
て解決出来るんだから、あまり一人で抱え
込まないでね」
やんわりと肩を撫でながらそう言った母
に、千沙は鏡越しに笑みを返す。
こんなにも自分を想ってくれる家族が
いる。そう思うだけで、渇いた心に温かな
ものが沁み込んでゆく。
千沙は母親の手に自分のそれを重ねると、
後ろを振り返った。そして、緩やかに手を
握り、「もう行かないと」と、目を細めた。
「なんだ、綺麗じゃないか」
早々とハイヤーの後部座席に乗り込んで
いた父は、助手席に浅く腰かけた千沙を見る
なり、ひと言そう述べた。千沙はその言葉に
朗笑する。「なんだ」は余計だが、照れたよ
うに視線を泳がせながら娘の晴れ姿に感嘆
する様は、微笑ましい。
「ありがとう、お父さん」
素直にそう口にすると、父は「ふむ」と
満足そうに頷き、腕を組んだ。
「先方は立派な家柄だからな。こちらも
引けを取らないよう、気を使わにゃならん」
その言葉に隣に座る母は肩を竦めたが、
父は気付かない。そう言えば、以前渡され
た御堂家の親族書には、父の自尊心をくす
ぐりそうなプロフィールが記されていた
ことを思い出す。確か、母親は祖父が大手
百貨店の創業者で、父親は天皇皇后両陛下
の英国ご訪問に随行経験もある外務省のエ
リートだったか。そして婿となる御堂弘光
は、博学多才なK大出身の数学教師。
それらの立派な肩書が自分の幸せに直結
するとも思えなかったので千沙は気に留め
ていなかったのだけど……。
侑久だってゆくゆくはT大出身の宇宙航
空開発者になるだろうに。密かにそう思っ
てしまう自分に気付き、千沙は目を伏せる。
「好きだ」と言ってくれた侑久の手を
取れなかった自分が、いまさらこんなこと
を思って何になるというのか。
初めて侑久の唇を知り、抱き締める腕の
強さを知った。選択肢がないという自分の
ために、夢を諦めて共に学園を継ぐとまで
言ってくれた。
――もう、十分だ。
侑久のその気持ちだけで心は幸せに満た
され、おそらくは一生分の幸せに匹敵する
だろうとさえ思う。
だから、心は不思議なほど澄んでいる。
恋は失われたが、この世の中には失われ
る恋の方が多いのだ。
顔を上げると、車は休日の街並みを車窓
に映しながら軽やかに走り抜けていた。
千沙は帯が崩れぬよう、しゃんと背筋を
伸ばし、移りゆく景色を静かに見つめた。
訪れた店は、厳かな門構えの老舗高級
料亭だった。千沙はハイヤーを降りると
門をくぐり、非日常感の漂う石畳のアプ
ローチを歩いて行った。
「そう」と呟くように声を漏らすと、母
は千沙の耳に顔を近づけた。
「あなたがそこまで言うなら……。でも、
これだけは憶えていてね。あなたは一人
じゃない。智花だって、お母さんだってい
るのよ。みんなで考えれば難しいことだっ
て解決出来るんだから、あまり一人で抱え
込まないでね」
やんわりと肩を撫でながらそう言った母
に、千沙は鏡越しに笑みを返す。
こんなにも自分を想ってくれる家族が
いる。そう思うだけで、渇いた心に温かな
ものが沁み込んでゆく。
千沙は母親の手に自分のそれを重ねると、
後ろを振り返った。そして、緩やかに手を
握り、「もう行かないと」と、目を細めた。
「なんだ、綺麗じゃないか」
早々とハイヤーの後部座席に乗り込んで
いた父は、助手席に浅く腰かけた千沙を見る
なり、ひと言そう述べた。千沙はその言葉に
朗笑する。「なんだ」は余計だが、照れたよ
うに視線を泳がせながら娘の晴れ姿に感嘆
する様は、微笑ましい。
「ありがとう、お父さん」
素直にそう口にすると、父は「ふむ」と
満足そうに頷き、腕を組んだ。
「先方は立派な家柄だからな。こちらも
引けを取らないよう、気を使わにゃならん」
その言葉に隣に座る母は肩を竦めたが、
父は気付かない。そう言えば、以前渡され
た御堂家の親族書には、父の自尊心をくす
ぐりそうなプロフィールが記されていた
ことを思い出す。確か、母親は祖父が大手
百貨店の創業者で、父親は天皇皇后両陛下
の英国ご訪問に随行経験もある外務省のエ
リートだったか。そして婿となる御堂弘光
は、博学多才なK大出身の数学教師。
それらの立派な肩書が自分の幸せに直結
するとも思えなかったので千沙は気に留め
ていなかったのだけど……。
侑久だってゆくゆくはT大出身の宇宙航
空開発者になるだろうに。密かにそう思っ
てしまう自分に気付き、千沙は目を伏せる。
「好きだ」と言ってくれた侑久の手を
取れなかった自分が、いまさらこんなこと
を思って何になるというのか。
初めて侑久の唇を知り、抱き締める腕の
強さを知った。選択肢がないという自分の
ために、夢を諦めて共に学園を継ぐとまで
言ってくれた。
――もう、十分だ。
侑久のその気持ちだけで心は幸せに満た
され、おそらくは一生分の幸せに匹敵する
だろうとさえ思う。
だから、心は不思議なほど澄んでいる。
恋は失われたが、この世の中には失われ
る恋の方が多いのだ。
顔を上げると、車は休日の街並みを車窓
に映しながら軽やかに走り抜けていた。
千沙は帯が崩れぬよう、しゃんと背筋を
伸ばし、移りゆく景色を静かに見つめた。
訪れた店は、厳かな門構えの老舗高級
料亭だった。千沙はハイヤーを降りると
門をくぐり、非日常感の漂う石畳のアプ
ローチを歩いて行った。