契約結婚のススメ
 誘ってくれたのは大人の社交辞令だっただろう。そうじゃなかったとしても、連絡なんてしたら下心があるって思われちゃう。恋愛未経験の私に、そんな勇気はない。

 あの日もらった電話番号のメモはパスポートに挟んであるけれど、電話を掛ける機会はもうないだろう。
 そう考えるとちょっと残念だ。

 彼にミラノを案内してもらったら、きっと楽しかっただろうに。

 あれから一年と半年が経ち、あんなふうに楽しい日はもう二度と来ないような気がして寂しくなった。

 淹れ立てのコーヒーを口に含むと、気持ちを代弁するような苦味が広がる。

 ローマから帰って数か月後の冬、父が倒れた。

 とても寒い夜だった。

 私の家、椿山(つばきやま)家はここ鎌倉で明治の頃から続く料亭『枇杷亭(びわてい)』を経営している。

 今の社長は父、父の弟である叔父が副社長となり、跡を継いでいる。

 私は父が倒れるまで知らなかったけれど、数年前からどうやら枇杷亭の経営状況が芳しくないらしい。

< 21 / 203 >

この作品をシェア

pagetop