月の後宮

12 回想

 おだやかな春の夕べ、セルヴィウスはセシルにリュートを聴かせていた。
 夜着姿の二人の間には、寝台の上で寄り添いながらも、以前のように秘めやかな空気はない。セルヴィウスが弦を弾きながらセシルを見下ろすと、彼女は体を丸めて寝そべりながら歌を口ずさんでいた。
 セシルは、今日はずいぶんと顔色がいい。夕餉もよく食べていたし、日中も起き上がってメティスと菓子を楽しんでいたと聞いている。
 セシルと手をつないで眠った夜以来、彼女はセルヴィウスと共に寝台に入ると落ち着くようになった。それを見て、セルヴィウスも暗い戯れをしかけなくなっていた。
「兄上、もっと弾いてください」
 手を止めたセルヴィウスに、セシルが袖を引いてねだる。
「そうだな。ならば、懐かしい恋唄を」
 セルヴィウスは不遇だった幼少の頃、後宮に出入りしていた楽師に習ってリュートを覚えた。他に与えられた学もなかったので、真剣に学んだ。王子でなければ今すぐ弟子に欲しいのですがと、楽師は繰り返しこぼしていた。
 一方でセシルは正妃の産んだ唯一の姫だった。王と正妃の夫婦仲は冷え切っていたが、美しく危ういセシルを、父王は常に側に置きたがった。
 父王は後宮に来るたびセシルを呼び、膝に乗せて遊ばせていたが、いささかセシルに固執しすぎているように見えた。他の姉妹姫は笑い声もうるさいと遠ざけていたのに、セシルが泣くと可愛い子だと相好を崩した。
 それが父の愛でないと気づいてしまったのは、セルヴィウスが十歳のときだった。
 その頃父王は飽食がたたってひどく太り、歩くにも従者の助けが必要だった。それでも父王に買われる少女奴隷も、彼女らから生まれる弟妹も増えていた。
 あるとき兄王子にそそのかされて、父王の寝所を覗き見た。そこでセルヴィウスは世にもおぞましい光景を目にすることになった。
 自分の子どもほどの、まだ恋も知らないような年頃の奴隷の少女たちを、獣のようにむさぼっていた老王。
 父王は冷ややかに言った。お前たちは一人産めばよい。そうしたら余所に売ってやろう。あれが子を産めるようになれば用済みだ。
 セルヴィウスはあることに気づいて、体が震えだしていた。
 彼女たちは誰も彼も、セシルに似ていた。よくよく思い返せば後宮に買われてくる少女奴隷の多くが、セシルに通じる面立ちをしていた。
 ふいに父王は少女たちから目を離して笑む。
 やはりあれが一番だな。動物のように毎年産ませてやろう。私の子だ、きっとたくさん子を成すに違いない。
 セシル、可愛い我が娘よ。父王の言葉に、セルヴィウスはもう嘔気が耐えられなかった。
 寝所から逃げ出し、庭でうずくまって吐いた。目の前が点滅し、世界の何もかもが醜く見えた。
――兄上、どうしたの?
 そのときセルヴィウスをみつけ、隣に座ったセシルだけが綺麗な存在だった。
 汚れたセルヴィウスの口元を手で拭って、あどけなく首を傾げてのぞきこんだ顔。ほとんど弟妹にも忘れられている自分を、いつも兄上、兄上と呼んで追いかけた無邪気な妹。
 このときまで、セルヴィウスは王子としての自分などどうでもよかった。そのうち後宮を抜け出して、楽師か、いよいよとなれば夜盗にでもなろうと思っていた。それくらいしか自分に生きる手立てはなかったし、そうして生きていくのに不満もなかった。
 でもそれでは駄目だ。それでは、セシルはいずれ寝所の少女奴隷たちと同じことをさせられる。
 この綺麗な生き物を傷つけるくらいなら……あのおぞましい老人を消すくらい、大したことではないだろう?
 瞬間、セルヴィウスの目の前は晴れ渡り、後には清々しいくらいにまっすぐな道が広がっていた。彼は笑ってうなずいた。
――俺は大丈夫だよ、セシル。何も心配要らない。
 その夜、セルヴィウスが初めて学んだ生きるすべは、大事なもの以外を目の前から消していく方法だった。
 一つ一つ、セルヴィウスは選び、それ以外を消していった。乳母のつてを使ってル・シッド公国に留学して学を得て、帰国してからは淡々とクーデターの準備を整えた。父王の首を自らはねたときさえ、次に首をはねるべき兄王子の顔を思い浮かべていて、何の感慨もなかった。
「兄上、どうされたのですか?」
 恋唄を終えてセシルをみつめているセルヴィウスに、現在のセシルが問いかける。
 セルヴィウスは目を細めてほほえむと、セシルの頬に手を触れて言う。
「そなたのことを考えていた」
 冗談だと思ったらしく、セシルもくすくすと笑う。
「そろそろ手が疲れたのでしょう? 素直にそうおっしゃってください」
 違うのだがなと、セルヴィウスはリュートを置きながら苦笑する。
 皇帝の地位に憧れも執着もなかったが、機嫌よく寝そべるセシルを間近で見ていられるのだから、案外悪くなかったと思う。
 セルヴィウスもセシルの傍らに体を横たえて、頬杖をつきながら彼女を見下ろす。
「菓子は美味しかったか」
「はい。南方の貴族の姫が召し上がるのだそうですね。初めて食べました。兄上は召し上がりましたか?」
「私はまだ。そなたがそう言うなら、私も口にしてみよう」
「はい! 義姉上に聞いたのですが、南方では……」
 セシルは目を輝かせて話す。久しぶりにこぼれる笑い声に、セルヴィウスは安堵する。
 子どもの頃はよく、セシルと二人で夜シーツにもぐって他愛ない話をしていた。セシルが元気よく話しているのを聞いていると、これで十分ではないかと内心ため息をつく。
 セルヴィウスの中には兄以外に男が同居しているために、セシルに触れ、その体温を感じることを求めた。それは禁忌ではなく、ただの愛だと思っていた。
 だが気づいてしまった。セシルが自分に見ているものは違うのだ。セシルは自分に体温を求めてはいない。たとえばリュートの音色、甘い菓子。男ではなく、兄。
 セシルの垣間見えた心は、セルヴィウスにとっては切ない心持ちもする。けれど、それはいろんなものをふるいにかけていっても最後に残る、セシルという存在の中心なのだった。
 セルヴィウスの中の男の部分が、今もうずきを訴えてくる。この存在に触れたい。できるならもっと深くで溶けあっていたいと願ってしまう。
 こうして穏やかに寄り添う時間が愛しいのに、愚かな自分がそれを壊そうとする。そうなる前に、兄としてセルヴィウスはセシルを安全なところに送らなければいけなかった。
「セシル」
 心地よく眠りに誘われているセシルに、セルヴィウスは問いかける。
「アレン公子に嫁ぐ気はないか?」
 その言葉を聞いたときのセシルは、少し不思議な反応を示した。
 目を見開いて、セルヴィウスを見上げる。喜ぶのとも、嫌がるのとも違う。
「……わかりました」
 来るべきときが来たというように、こくんと素直にうなずく。
「無理強いするつもりはない。別の相手でもよいし、そなたが嫁ぐのを望まぬのならずっと後宮にいても構わない」
 セシルはゆっくりと首を横に振って、確かめるように告げた。
「アレン公子に嫁ぎます」
「良いのか?」
 セルヴィウスはまた少し、視界が悪くなった気がした。やっと丘の上に立ったのに、セシルの前にカーテンが引かれて輪郭が薄くなったような思いがした。
「嬉しいです」
 セシルはほほえんで、セルヴィウスの手を頬に当てた。けれどその横顔は、寂しそうに見えた。
 言葉に迷ったセルヴィウスに、セシルは問う。
「お願いしたいことがあるのですが、聞いてくださいますか?」
「何だ?」
「ルイジアナ様が後宮入りされるまでは、ここに残らせてもらえませんか」
 そこでなぜルイジアナの名前が出たのか、セルヴィウスにはわからなかった。
 元よりセシルの代わりに世継ぎを成すために召す姫だ。だが、セシルの言葉の意味はそれとは違うように思える。
「……もちろん、構わぬが」
 セシルはそれを聞いて、安心したように目を閉じる。
 ほほえみながら頬に涙をこぼして、セシルは眠りに落ちていった。
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