君が夢から醒めるまで


 『君の知っている匠真君を重ねないで』

 夢の中で飯村君に言われた言葉ばかりが頭をめぐる。彼があの匠真じゃないことなんて分かっている。分かっているつもりだけど、私の心は無意識に二人を重ねてしまうのだ。
 夢の中でも飯村君に謝ったけれど、現実世界でも一応彼に謝っておく。もちろん、心の中で。


 今日は昼前から夕方まで大学で授業が入っている、三回生の後期だというのにこんなにもぎっしりと授業を入れているのは、私が今までたくさんの単位を落としてきた報いだ。別に不真面目だった訳ではない。おそらく私の詰めの甘さが原因だろう。いや、本当のことを言うと、結局は私が十五歳から進めていないことが一番の理由なのだと思う。

 そういう訳で私は今、百人ほど収容できる講義室にいる。知り合いのいないこの授業が今期に履修してる科目の中で一番嫌いだった。こんなことならばもっとちゃんと単位を取っておけば良かったと、後悔の念に駆られながら先生の話を聞くのがこの授業のお決まりだ。
 しかも今日は時間ギリギリに着いたので、八十人ほどの学生で埋め尽くされたこの部屋に残された席というのは限られていた。隣のいない前の方の席か、見知らぬ人が隣にいる後ろの方の席か。迷った結果、私は後者を選んだ。席についてすぐに、視界の端に隣の学生をぼんやりと映すと、その人は本を読んでいた。隣のいない席で優雅に読書をする九十分を送りたかっただろうに申し訳ない。私は心の中で隣の学生に謝った。なんだか今日は謝ってばかりだ。

 先生の低くてゆったりとした声は私の睡魔を大いに誘った、開始十五分で瞼が半分以上落ちてきた。またあの夢の続きを見れるかなと、まだ現実世界にいる私の脳が呟いている。あと数秒、あとほんの数秒で私の中の全ての機能がシャットダウンするというところで、右肩をシャーペンのようなもので軽く突かれて視界が一気に広がった。

『寝ないで!』

 見慣れない文字で確かにそう書いてある。授業が始まった時にはこんなもの置いていなかったはずだ。そういえばとふと思い出し、私を現実世界に連れ戻した右肩を見てみた。そしてそのまま目線を少しだけ上にあげて隣の席に目をやると、肩を震わせながら下を向いて笑う飯村君の姿があった。

 ひとしきり笑い終えると、唖然とする私を見るなり彼はもう一度ルーズリーフを自分の元へと戻し、何やらまた文字を書き始めた。

『眠気覚ましにちょっと話そうよ』

 手元に置かれたそれを見て、今朝見た夢を思い出した。寂しそうな飯村君の背中が私の脳裏を駆け巡る。私はそれを振り払うようにしてシャーペンを手に取り、白い紙へと向かった。

『いいよ。隣、飯村君だったんだね。全然気づかなかった』

『俺は浅倉さんだって気づいてたけどね』

『え、なんで声かけてくれなかったの?』

『だってなんか面白かったから』

『何それ。馬鹿にしてる?』

 罫線のある白い紙が今だけはとても輝いて見えた。キラキラとした青春のような輝きが私には感じられる。
 飯村君は私の返事を見ると、本気にしてしまったのか、こちらを向いて大きくかぶりを振った。そんな彼を見て思わず吹き出してしまった私は彼からルーズリーフを取り、すぐさま『冗談だよ』と書き込んだ。

 そうだと分かると彼は胸を撫で下ろすように小さく息を吐いた。緩んだ口角で目を細めながら文字を書く彼の横顔は、今の季節に似合わないような爽やかさと涼しさがあった。

『今日は友達の代理で来てるんだけど、浅倉さんがいるなら来週からも来ようかな』

 それを見た私は弾む心を沈めるために静かに息を大きく吸い込んだ。そして三秒ほど息を止めて、また静かに吐き出す。そうすることで少しだけ落ち着きを取り戻せるのだ。
 それにしても、どうりで三ヶ月近く受けてきたこの授業で彼を見かけたことがなかったはずだ。まぁそうはいっても私が彼の存在を知ったのはつい最近なので、見たことがないという表現が正しいのかどうかは微妙なところだ。だけどきっと彼を一眼見たら確実に覚えていたと思う。もしかするとこの間のように、突然話しかけにでも行っていたかもしれない。

『この授業いつも一人だから知り合いがいてくれるのは心強いね』

『寝かけてたくせに』

 こちらを向いていたずらに笑いかける彼につい見惚れそうになる。息を吸って、吐く。それを繰り返しながら彼との会話を続けていく。

『起こしてくれてどうもありがとう』

 少しだけ唇を尖らせながらルーズリーフを隣へ滑らせる。

『浅倉さんもそんな顔するんだね』

 そう書かれているのを確認して横を向くと、彼と目が合った。パズルの型が合うようにパチっと音が聞こえたような気がする。私はもうその視線から逃れられなかった。

 広々とした室内に響き渡る先生の声。それを一生懸命に聞く学生、俯いて寝ている学生、下を向いてスマホと向き合っている学生。誰一人として私たちのことなど見ていない。その瞬間、世界に私たち二人以外誰もいなくなったと、そう思えた。視線を逸らしてしまったらこの世界は壊れてしまうだろうか。——嫌だ、壊したくない。

 気がつくとルーズリーフは彼の元へ引き戻され、そして再び私の目の前に置かれた。

『そんなに見つめられたら照れるんだけど』

 見慣れてしまった彼の文字でそう記されたそれを見ると急に恥ずかしくなり、もう彼の顔を見ることができなかった。

「では、少し早いですが今日の授業はこれで終わります」

 タイミングよく先生から終了の合図が出て、私はほっとした。紙上であってもこれ以上の会話はできそうにもなかったからだ。足早に教室から出ていく学生たちによって開けられたドアから流れる外気で、火照る顔を少しずつ冷ましていく。少し落ち着いてきたところで今日最後の会話を作成した。

『今日はありがとう。おかげで寝ずにすみました』

 それだけ書いて私も足早に席を離れた。彼に一瞥もすることなく出てきてしまったことは、外の寒さで我に返った瞬間少しだけ後悔した。
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