君が夢から醒めるまで
第3章


 四月に入ると一気に気温は上昇し、窓の外には桜の花びらがその役目を果たしたものから順に舞っている。久しぶりの出勤日となった今日は快晴だ。ふと部屋にあるカレンダーを見ると、まだ三月のまま止まっていた。あれだけの休み期間があったにも関わらず一度も帰省することのなかったそのページを破りゴミ箱へ捨てる。帰らなかったという罪悪感も一緒にそこへ捨ててしまえればいいのに、そんなに簡単にはいかないものだ。

 両親には電話をしたときに就活が忙しいからと伝えておいたけれど、もしかしたら娘のそんな嘘なんて見透かされていたかもしれない。きっと親ってそういうものだと思う。
 特に母親なんてその辺の勘が本当に優れている。先日の電話でいつものように近況について聞かれたので「まぁぼちぼち」と、これもいつも通りに返答しておいた。それなのに彼女は、「あんた恋してる?」と確実にニヤついていることが分かるような声で言ってきた。どんな魔法を使ったらそんなことが分かるのだろうと感心した私は、その後母に今からでも探偵になればいいと勧めた。
 何をどれだけ見透かしているのかは分からないけれど、彼女は最後に「どんなことがあっても正直にいなさい」と言ってきた。その言葉にどんな想いが込められていたかは分からないけど、私はそれをきちんと胸に刻んだ。


 久しぶりの出勤が楽しみすぎて三十分前に店に着いてしまった私が時間を持て余していると、五分ほどすると友梨ちゃんがやって来た。

「琴音さーん!やっぱり、もう来てるかなって思って私も早めに来ちゃいました。お久しぶりです、会いたかった」

 彼女はそう言って抱きついてくる。久しぶりだと言った彼女の言葉は本当で、私たちが会うのは実に三週間ぶりだった。私のシフトが少ないことと、彼女のほぼ固定されたシフトに私が被らないことが重なり、随分と長い間会っていなかった。

「久しぶり。相変わらず元気そうだね」

 私の言葉に彼女はあからさまに落ち込んだ素振りを見せた。首を下に傾けて肩を落とし、大きなため息をこぼす。わざとらしいその態度は彼女らしさの塊だと思った。

「どうかしたの?」

「合コン行こうかなぁ」

「えっ?どうしたの急に」

 彼女は時々突飛なことを言い出す。その度に私は驚きと焦りで神経をすり減らしていた。
 事務所の中に流れる不穏な空気に時計の秒針を刻む音が紛れ込む。彼女が反応を見せない時間を嫌でも数えてしまう。三十三秒、彼女の口が開く。

「先輩が浮気してる」

 重たい言葉は全身にずっしりと響いた。彼女には似合わない言葉だと思ったし、宮部君にも似合わないと思った。

「何かあった?」

「見ちゃったんです、私。知らない女の人とこっそり会ってるの。多分私よりも年上で、すっごい背が高くて……美人でした」

 唇を尖らせながら彼女は嫌々話してくれた。宮部君と初めて喧嘩をした翌日に謝りに行こうとしたところで目撃したという。しかも二人はお互いに何かを渡し合っていたと彼女は言っていたけれど、全て彼女の主観的な見解であって受け手がそのまま受け取っていいものではなさそうだった。

「それに聞いてくださいよ!喧嘩になった原因も、例の第二ボタンなんですよ。私が予約しに来たら告白するとか言ってたくせに、あの人他の人にあげちゃってるんですよ?信じられない」

「あぁ、そう、なんだ?」

「え、ありえなくないですか?」

「そう、なのかもしれない」

 ここは彼女に合わせるべきだと思ったし、これ以上彼への怒り指数を上げてはならないと思った。

「その喧嘩については、仲直りしたの?」

「いや、してません。だって謝りに行ったら現場見ちゃうし。それでも夜電話したんです。ちゃんと仲直りしたかったし、もしかしたら私の勘違いかもしれないしと思って」

 彼女の中に勘違いという概念があったことに少々驚く。だけど眉間に皺を寄せた彼女の顔を見れば続く言葉は私でも想像できた。

「嘘つかれたんです。その日何してたか聞いてもずっと家にいたって言うし、一日中寝てたって言い張るんですよ」

 彼女の怒りがピークに達したところで勤務開始時間になり、私たちは店へ出た。また後で話すことを約束すると、彼女はしっかりと顔を変えて元気よくいらっしゃいませと丁寧に頭を下げている。その姿を見るとやっぱり彼女は笑顔が似合うと思った。

 結局バイトが終わってからお店が閉まる深夜十二時まで私たちはコーヒーを飲みながら時間を共にした。まぁ八割は彼女の愚痴を私がひたすら聞いていただけだったけれど、全てを言ってスッキリしたのか最後は涙目になりながらも彼女は笑っていた。

「まぁまだ浮気って決まった訳じゃないしさ、とりあえず一旦冷静になろうよ。今日のところは帰ってゆっくり休もう」

 私がそう言うと彼女はコクリと頷いた。お疲れ様でしたと言った彼女の声はいつもより少し元気がなかったように思う。その背中を見送っていると、ポケット入れていたスマホが震えた。明日空いてる?と書かれたメッセージの相手は飯村君だった。そうだ、彼なら宮部君のことを何か知っているかもしれない。すぐに返事をすると彼も私に合わせるようにテンポ良く返信をくれた。終電を逃してしてしまい歩いて帰る夜道で、暗闇の中浮かび上がるスマホの明かりさえも愛おしく感じるような、そんな時間だった。
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