これが我が一族の能力〜鎌倉時代編〜
後日。
わしと父は、鳥羽法皇に保護され罰金刑となっただけですんだ。



その後、忠盛が亡くなり、わしが平家の棟梁となる。



その約3年後――。



保元の乱が起きる。



この保元の乱の時のわしの立場は微妙だった。



崇徳天皇の子供・重仁親王の乳母を池禅尼がしていたためだ。
しかし、わしは、後白河天皇側につき、勝利した。



そしてその後の、平治元年(1159年)は、藤原信頼・経宗・惟方らの反信西派を一掃する。
この時、源義朝・重成・季実・光保らが死亡。



わしは、武士の第一人者として、朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権の礎を築いたのだ。



しかし院勢力側が、わしの勢力伸張に対し、不快を感じ始めた。
そして建春門院の死を契機に対立してしまう。



その後、鹿ヶ谷の陰謀が起きる。



後白河法王の近臣である、藤原成親・西光・俊寛らが京都にある俊寛の別荘にて、平家打倒を謀議していた。
しかし、それを源行綱の密告にて発覚した。
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