若社長は面倒くさがりやの彼女に恋をする
8.
「ねえ、お母さん、今日の夕飯なぁに?」

「今日はお鍋よ」

「やったー! 肉団子入れてね!」

「つみれ、ね」

 お母さんが笑いながら言い直す。

「お父さんも早く帰ってくるの?」

「ええ。七時には帰ってくるって。響子も準備、手伝ってくれる?」

「うん!」

「じゃあ、お箸ととんすい並べてちょうだい」

「はーい」



 懐かしい夢を見た。
 母の夢なんて、何年ぶりだろう……。
 すごく楽しくて幸せで、なのに夢だと分かっているせいか、やけに切ない。
 お母さんは死んじゃったから。
 お父さんも死んじゃったから。
 胸を吹き抜ける寂しさと、もっとこの夢の世界に浸かっていたいという気持ちに心が乱れる。
 まだ、お父さんに会ってない。
 続きを見させて。
 そう思いながら、目が覚めた。


 鼻をくすぐる良い匂い。
 ……お鍋の匂い?
 目に入るのは見慣れたアパートの天井。
 あれ? ……なんで?
 一人暮らしのこの家でお鍋の匂いがするとか有り得ない。そもそも、家に土鍋がない。そして、未だかつて一度もここでお鍋などしたことがないのだ。でも、隣の部屋から漏れ入った匂いとは思えないほど、しっかりとした懐かしく美味しそうな匂いが立ち込めている。

「目、覚めました?」

 ん? これ、昨日も聞いた気がする。
 と、声のする方を見ると、満面の笑顔の男性に顔を覗き込まれた。

「……牧村さん?」

 そうだ。偽物じゃなく本物の、どでかい会社の社長さん。

「はい。何でしょう?」

「……匂いが」

「ああ、食べやすいかなと思ってお鍋にしたんですが、大丈夫でした? もしかして、苦手でした?」

「いえ。……好きです」

「それは良かった。今、一時過ぎです。少し遅めの昼ご飯。いかがですか?」

「食べます」

 昨日みたいな義務感からじゃない、今朝のような流されてでもない、「食べたい」という気持ちがお腹の底からふつふつとわいてくる。
 考える間もなく答えていた。
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