造花街・吉原の陰謀

8:吉原の厄災

「宵兄さんが、旭を殺した?」

 明依は終夜の言葉を咀嚼(そしゃく)しようと無意識にそう呟いた。

「うそ」
「嘘よね、宵兄さん」
「明依、日奈。耳を貸すな。俺じゃない」

 日奈が自分に言い聞かせるように呟いた後、縋る様に宵へと視線を向けた明依の目を見た彼ははっきりとそう否定した。

「宵、言い残す事はある?」

 軽い口調でそういう終夜を宵は睨んだ。

「俺は何もしていない。証拠があるなら出してみろ」
「本当にいいのかな?こんなところでバラしちゃっても」
「何のことだ……?一体何を、言ってるんだ」

 終夜の挑発的な口調に、宵は唖然としてそれ以上の言葉を紡ぐことは出来ない様だ。この切迫した空気感の中で、終夜の飄々とした態度だけが不気味に浮き上がっている。

「何かの間違いじゃないのか?」
「清澄。今回の事に限ってはお前は部外者だ。もしも我々の間違いならばすぐに解放しよう。これは主郭の最終決定だ」
「そいつはちょっと虫がよすぎる話に聞こえるねェ、叢雲(むらくも)

 清澄の問いかけに応えたガタイのいい男は叢雲というらしい。

「主郭の人間が、主郭の意思決定に逆らう様な真似をするな」

 叢雲はそう言いながらも、どこか居心地が悪そうに視線を逸らした。周りにいる主郭の人間もどことなく落ち着きがない様子だ。

「そういう事だよ。もういいだろ?連れていって」

 終夜がそう命令すれば、主郭の人間は宵を拘束しようと動き出した。日奈は走り出して、終夜の腕を掴んだ。

「本当なの?終夜」
「久しぶり、日奈。元気そうで何よりだよ」

 終夜の口調は酷く優しく、柔らかい笑顔を日奈に向けていた。しかし次の瞬間には、日奈の手を無理矢理振りほどいて歩き出す。日奈から視線を晒したその顔は、あの雨の夜に初めて終夜を見た時の表情と全く同じだった。どこまでも無機質で、冷たい顔だ。何を考えているのか全くわからないその男に、明依は恐怖すら感じた。
 しかし日奈にとって終夜の行動は予想の範囲内だった様だ。すぐに終夜の腕を掴み直した。今にも泣き出しそうな顔で。

「ねえ教えて。旭が宵兄さんを殺したっていうのは、本当なの?」
「ああ、本当だよ」

 終夜の腕を握っていた日奈の手は力なく重力に従い、そのまま呆然とした様子で膝から崩れ落ちた。宵は主郭の人間に手を拘束されて誤解だと弁解を続けている。そんな喧噪を一瞥することもなく、終夜は我関せずと言った様子で、悠々と歩いていた。
 そんな訳あるはずがない。宵が旭を殺す訳がないと、明依は自分に言い聞かせた。証拠があると仄めかして、思い当たる節のない宵を煽っているだけに違いない。
 腹が立って仕方がなかった。自分を友と慕う日奈への態度も、宵への言動も、思い返せば先日の旭が死んだ日の他人事の様な態度も。同時に、旭と日奈が終夜の話をするときにいつも人目を気にしていたのは、こういう事だったのかと納得した。
 明依は日奈の横を通り過ぎて終夜の胸ぐらを掴むと思いきり引き寄せた。

「宵兄さんは、犯人じゃない」
「どうしてそう思うの?」
「人の出入りが多い満月屋で、宵兄さんが旭を殺す為に見世を出たなら、必ず誰かが見てるはず。まずはそれを調べてよ」
「世間知らずなお姉さんに一つ教えてあげる。そんなもの、何の意味も持たないんだよ。この世界ではね」

 その言葉の真意は分からない。しかし今の明依にはそれが、他人に罪を擦り付ける事など容易だと言っている様に思えた。
 終夜は胸元に伸びた明依の手を握って引き離した。

「傾城に誠なし。って知ってる?遊女は信用するなって事。つまり、遊女が遊女なら、楼主も、」
「明依!やめろ!」

 宵の制止も聞かず、明依は言葉を続けようとする終夜の頬を思い切りはたいた。辺りには、乾いた音が響く。

「どうしてアンタを、アンタなんかを!旭と日奈が友達って呼んでるのかわからない!」
「うん、そうだね」

 終夜はまるで見下すように明依に視線を向けて口元を緩めた。

「俺が教えてほしいくらいだよ」

 そう言うと終夜は一瞬のうちに明依の首に手をかけて、ゆっくりと力を込めた。終夜を止める怒鳴り声が聞こえるが、彼は聞く耳を持たない。
 明依は自分の首に回っている終夜の手を掴んで爪を立てたが、微動だにしない。圧倒的な力の差があまりに悔しくて、目に涙を溜めたまま彼を睨んだ。

「負けん気の強さも聞いてた通りだ。でも、アンタは自分すら守れないんだよ。次があるなら気を付けようね」
「終夜!明依のしたことは俺が代わりに謝る!だからもう、やめてくれ!」

 宵は主郭の人間に制されながらそう叫ぶも、終夜はとうとう明依の身体を宙に浮かせた。苦しさに意識を手放しそうになる頃、日奈が明依の首に伸びている終夜の腕を両手で掴んだ。緩んだ終夜の手を思いきり引き離し、首元が解放された明依は地面に座り込んでむせ返った。

「先に手を出した明依も悪いよ。でも、終夜の言い方も酷かった。力の差があるのをわかっていて、ここまでしなくていいと思う」

 日奈は終夜を睨みながらそういった。終夜は呆気に取られている様子だ。

「次、明依に何かしたら、絶対に許さないから!」

 そう叫んだ日奈の身体は震えていた。それを見た終夜は、溜息を一つついて明依を見た。

「アンタも相当、人たらしだね」

 そう言うと終夜はパンパンと二度胸の前で手を叩いて、まるで種明かしと言わんばかりに顔の横で両手を広げた。

「観衆のみなさん、いかがでしたか?現代版の吉原の俄は」

 その一言で観光客たちの雰囲気は一気に緩和していく。何だ芝居かと口々に呟き、やがて歓声に変わっていった。

「連れていけ」

 終夜がそう指示を出すと、主郭の人間はすぐに宵を引っ張って移動し始めた。

「なんだよ結局連れていくのかよ~!」
「芝居徹底してんなァ!」

 観光客からそんな声が飛び交う中で、終夜は薄ら笑いを浮かべて道を歩き出した。
 終夜を引き止められなかった事が悔しくて、それなのに終夜が去った安心感が、自分は無力であると突きつけているように思えた。

「アンタ迫真の演技だったな!こんなところにいるのは勿体ねーよ。いっそ女優にでも、」

 観光客の男の一人がそういって明依の肩に手をかけたが、俯いて涙を流す明依に男はぎょっとした様子で明依の肩に置いた手を引いた。

「この子、演技派でしてねェ。入ってる役を抜くのに時間がかかるタイプなんですよ~」

 清澄は観光客の男にそう言って明依の腕を掴んで立ち上がらせると、満月屋に移動した。

「無茶しすぎだ、明依ちゃん」
「ごめんなさい、清澄さん」

 清澄と明依が満月屋の一室に入ってすぐにバタバタと騒がしい足音が聞こえた。

「明依!大丈夫?」

 崩れる様に腰を下ろした明依の前に座った日奈はそう問いかけたが、まだ手が震えていた。明依の視線を辿った日奈は、それを抑える様にもう片方の手で包み込んだ。

「明依、お願いだからあんまり無茶しないで。私怖かった。明依がいなくなったらって思ったら」
「ごめんね、日奈。守ってくれてありがとう」

 明依は震える日奈の手を握った。短い時間にいろいろなことが起こりすぎて、どう整理したらいいのか皆目見当もつきそうにないが、明依には日奈が傍にいる事だけが唯一の救いの様に思えた。

「おい清澄」

 叢雲は室内に入り後ろ手で襖を閉めると、清澄に向き直った。

「旭がいなくなった今、実質一番頭領に近いのはあの終夜だ。逆らうな、消されるぞ」
「〝吉原の厄災〟なんて呼ばれて、怖がられている終夜を憐れに思ってる。まだ二十歳にもならない子どもじゃないか」
「あの男が初めて人を殺したのはまだずっと幼い頃だ。かろうじて人間の面影を残す屍を見下ろして、楽しそうに笑っていたそうだ」

 清澄は叢雲の話に押し黙った。

「アレは、鬼神(おにがみ)だ。年が近い旭が間を取り持って何とかバランスが取れていたんだ。もう誰にも止められない」
「誰にもって事はないだろ、叢雲。頭のご子息の指南役を仰せつかったアンタなら、」
「終夜が頭領のお気に入りだから手が出せないのではない。あの男は、強すぎる」

 明依は処理しきれない情報量で、頭の中がパンクしそうだった。頭領から一目置かれている男は吉原の誰よりも強く、宵を犯人と決めつけて連れて行った。どれだけ考えても絶望以外の何もなかった。そこに一縷の希望でもあるのなら教えてほしいくらいだ。
 叢雲は日奈に憐れむ様な視線を向けた。

「雛菊。お前と旭、それから終夜は昔からの仲だと聞いている。しかし、昔の終夜だと思って関わるのはやめろ。人は変わるんだ。良くも、悪くもな」
「終夜は、そんな人じゃありません。きっと何か、理由があって……!」
「お前の感じたあの男への恐怖が事実だ。旭が死んだ今、この吉原であの男を庇うという行為は、主郭の人間から目を付けられるという事と覚えておくんだな」

 叢雲の強い口調に日奈は押し黙り、ぐっと下唇をかんだ。

「お話し中に失礼します」

 凛とした声に四人は出入り口の襖へと視線を移した。声の主が丁寧に襖を開けた。

吉野(よしの)(ねえ)さま」

 明依がそう呟くと、吉野は柔らかい笑顔を作って室内に入り、襖を閉めた。たったそれだけの行動から、品格と聡明さを余す事なく他人に認識させる。
 満月屋唯一の松ノ位。吉野大夫。

「全て見ておりました。叢雲さま、私も話に混ぜてくださいますね」
「当然だ。満月楼のこれからの話もしなければいけない」
「ご心配には及びません。楼主がいなくてもこの満月屋は回ります。ついては今夜から楼主の宵が帰るまでの間、私への楼主権限一切の移行をお願いするために参りました」
「今夜は無茶だ。一切を取り仕切っていた楼主がいないんだぞ。せめて一週間は閉めるべきだ」
「だから今夜なのです。残念ですが昼見世は中断します。そして今夜までに全てを整える算段は付いています」

 何かと上から目線の印象の強い叢雲が、吉野の発言にあからさまに動揺していた。

「どうかご心配なく。それよりも叢雲さま。もしも宵に何も罪がなかった場合は解放するというのは、本当ですね」
「今回の件はほぼ終夜の独断。どんな手を使ったのかは知らないが、頭領の許可を得ての事だ。主郭の人間のあの様子を見て分かっただろう。我々は従うしかなかった。宵に何の罪もなければ解放することを約束しよう」
「わかりました。それでは私は今夜の満月屋再開に向けて動きます」
「主郭の人間を数人派遣しよう。少しは力になるだろう」
「お気遣いありがとうございます。しかし、必要ありません。この子達がいますから」

 吉野は視線を泳がす叢雲に笑いかけると、明依と日奈の肩に手を添えた。それを聞いた叢雲は開いた口がふさがらないと言った様子だ。
 明依にもわからなかった。こんな状況で、自分が何かの役に立てると思える程の度胸はない。もしも期待されているのなら、正直に言えば迷惑だとすら思った。それはおそらく、隣で目を見開いている日奈も同じだ。

「こんな状況で、一体何が。この二人に、一体何ができる。満月楼の今後がかかっているこの窮地に。わかっているのか、吉野大夫」
「理解しています。これが満月屋にとってどれだけの危機かという事も、それ以上にこの子達の事を。だから大丈夫だと確信しているのです」

 それでも吉野は自信があるようだ。吉野は明依と日奈に視線を移して優しく微笑みかけると、すぐに叢雲へと視線を移した。

「この程度の事で挫ける様な、甘い育て方はしておりませんもの」

 明依は自分の中で枯渇していた何かが息を吹き返していくのを感じた。隣ではっと息を飲んだ日奈が、同じことを考えていると想像するのは簡単だった。
 『もう駄目だと思う時こそ、自分を騙してでも胸を張って堂々としていなさい』
 吉野はよくそう言っていた。いくら聡明な吉野でも、したことのない裏方の仕事なんて想像も出来ないはずだ。きっと一片たりとも見せてはもらえないだろうが、吉野も不安に違いないのだと明依は思った。それを誰にも悟らせることなく自らの退路を断つ吉野の姿勢、その生き様は、出会った時から何一つとして変わらない。明依と日奈が死に物狂いで追いかけ続けた、憧れそのものだった。その事実が、忘れかけていた高揚感を煽り、じわじわと胸の内を熱くした。

「楼主不在を問われた際には、人手不足につき自ら人選するために見世を開けていると説明します。幸いにも、彼が俄だと偽って宵を連れて行ったおかげで、見世を開ける前のちょっとした演出だったと話のネタにもなるでしょう。不謹慎な話ではありますけれど、宵がここに戻ってくるまでこの満月屋を守る為には方法を選んではいられませんから」
「一時的に楼主の権限を吉野ちゃんへ移す手続きは俺がやろう。叢雲は、宵くんの件を頼んだよ」
「ああ、分かった。何かあれば言ってくれ」

 吉野と清澄の言葉にしぶしぶ納得した様子を見せた叢雲は立ち上がった。

「叢雲さま。最後に一つだけ」
「なんだ」

 襖に手をかけていた叢雲は振り返って吉野を見た。

「主郭の方々は遊女を監視する立場にありますけれど、遊女が胸の内で誰をどう思うかにまで、制限をかける権利はありません」
「なに?」

 険しい顔の叢雲に対し、凛とした佇まいで彼を見る吉野の目は真っ直ぐだ。いくら大夫と言えど、主郭の重役に盾突く程の立場にはない。明依と日奈、そして清澄はただ息を飲んで二人の様子を見守っていた。吉野は叢雲の鋭い視線を意に介さず、日奈の肩を抱くように腕を回した。

「この子の中にはきっと、あなたが見た彼とは違う、この子が自分の目で見て感じた彼がいるのでしょう。だからどうか、芽吹いたばかりの若葉を摘み取るようなことはおやめください。それがあなたの本望ではないのなら」

 吉野の口調に咎める様子はなく、優しく諭すようだった。

「心のない人間はいないと、私は信じています。叢雲さまも、宵さんも、そしてきっとあの終夜という子も」

 叢雲は何か言いたげに口を開いたが、ぐっと口を噤んで部屋を出て行った。その瞬間に部屋を包んでいた重苦しい雰囲気は一掃され、吉野以外の三人は息をついた。

「明依、日奈。出ない答えを探すのはやめなさい。どれだけ考えても、本当に宵さんが旭くんを殺したかどうかはわからない。でも、あなた達が見た宵さんは、そんな人ではなかったのよね」

 明依と日奈は一度だけこくりと頷いた。

「だったら今はただ、あなた達が見た宵さんを信じてあげましょう」

 吉野の言葉に、明依と日奈は短く返事をした。
 宵も終夜も信じたい日奈にとって、この状況は余りに辛いだろう。そう思って、明依が盗み見た日奈の横顔は険しく、思いつめている様子だった。友達がこんなに苦しんでいるときに、何もできない事に自己嫌悪した。
 しかし、だからこそせめて、これから夜が来るまでの間、少しでも日奈の負担を減らしてあげられるようにしようと思ったのは、終夜を大切に思っている日奈の前で、口を衝いて出た終夜を軽蔑した様な発言への罪滅ぼしのつもりなのかもしれない。
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