離婚するはずが、エリート警視は契約妻へ執愛を惜しまない~君のことは生涯俺が守り抜く~

「何か無理をしていないか?」

「あっ、あの、してないです。ちょっと仕事で……」


 嘘だ。本当は"あの人"のせいで眠れていない……

 私は嘘をついている罪悪感から、すっと目線を逸らす。それから膝の上に置いていたミニバッグを握りしめ、姿勢を正した。


「あ、あの。本当に今日はありがとうございました……その、あの。良ければ、なのですが、なにかお礼をさせていただきたいな、なんて」


 言葉が尻すぼみになっていったのは仕方ないと思う。
 だってこれ、意訳したら「また会いたい」なんだもの。

 もちろん、本心からお礼をしたい気持ちもあるけれど、また会いたいのも事実であって……

徳重さんは「ふむ」って感じで考えたあと、こくりと頷いた。頷いて、くれた……!


「してもらっていいのかな。お礼」

「もちろんです! あの、なんでも」

「なんでも?」


 徳重さんは眉を軽く顰めた。そうしてまた、優しく優しく、私のおでこを指で弾く。


「いいか、鶴里さん。そんなこと、男に向かって言うものじゃない。付け入るやつもいるかもしれないぞ? というか、いる。絶対に」

「あはは、誰にだって言っているわけじゃないので……というか、男の人とこんなふうに出かけたの、今日が初めてだったので」


 食事すら出かけたことがなかったのだ、もし許されるならば──こっそり自分の中でだけ、今日のこれを人生初のデートとしてカウントしたいと思う。

 そんなふうに幸せを噛み締めながら「また連絡します」とお互い約束して彼の車を降りる。

 徳重さんは家まで送ると言ってくれたけれど、さすがにそこまでしてもらうのは気が引ける。

 ──と、人通りのない高架下を通って駅の裏手のコンビニに寄ろうとしたところで。


「風香ちゃん、引っ越したんだねぇ」


 私は……私は、思わず足を止めた。

 ほとんど反射的に嫌な汗が背中をつたう。
 恐怖で、呼吸が浅くなる──
 あいつ、だ。


「風香ちゃん」


 猫撫で声に、私はぎゅっと手を握り締めなんとか振り向いた。

 そこにいたのは、三十代前半くらいの男性──銀行の大口顧客である「砂田鉄鋼」の専務で、……なぜか一年ほど前から私につきまとっている砂田孝雄その人だった。


「……砂田、様。偶然ですね」


 声が震える。


「? 偶然? 何言ってるの風香ちゃん、風香ちゃんが僕のこと試したくせに」

「試し……?」

「そうそう! 恋愛の駆け引き? っていうの? 僕あまり得意ではないんだけれど、風香ちゃんのためなら頑張っちゃう。そういえば、僕が大学の時に付き合ってやっていた女の子がさあ……」


 私はベラベラと「自分がいかに大学時代モテていたか」を語る砂田さんを衝撃でぼんやりしている視界に入れながら考える。


(ど、どうしよう……! もう家を突き止められた!? まだ引っ越して一週間なのに!)


 ダラダラと冷や汗が止まらない。砂田さんは語り続けている。ばくばくと恐怖で心臓が痛い。


(……ううん。まだ、かも。まだ家までは気づかれてないかもしれないから、なんとか砂田さんを撒いて……)


 私はじり、じり、と半歩ずつ砂田さんから距離を取る。砂田さんがぴたり、と話すのをやめた。


「どうしたの風香ちゃん」

「あの、砂田様。私、今から用事が」

「え、それって未来の夫を放っておかないといけないレベルの用事なの?」


 きょとん、と返されたその言葉に嫌悪感で身体がいっぱいになって──気がつけば、私は叫んでいた。


「あ、あなたは、私の、婚約者なんかじゃありません……っ!」


 だって、「普通」に私のことを好きでいてくれるのならば、仕事終わりを待ち伏せなんかしない。
 家を特定して見張ったりしない。『昨日帰宅遅かったね。あのお友達、あまり良くないんじゃないかな』なんて教えてもない番号に電話をかけて来たりなんかしない!


「ん? そうだね、今はね。まだ風香ちゃんが駆け引きしてくるからさあ。でもそろそろ僕が一途な男だって分かったんじゃない?」

「分かりません! 分かりたくもない……!」

「もう、わがままだなあ」


 砂田さんは本当に「やれやれ」と言葉に出して手のひらを上げて肩をすくめ、そうして──私の手首を握った。

 じっとりと湿った手のひらに、勝手に漏れた悲鳴が高架下に響く。


「ほら、おいで。車で来ているから。少し話し合おう。僕の気持ちをわかってもらえるプレゼントもあるんだ」

「いや、やめて、本当に、誰か」


 私は喘ぐように呼吸を繰り返す。


「お願い、助けて、──徳重さんっ!」


 私はさっきまで一緒にいた初恋の人の名前を呼ぶ。
 きっと今頃、あの素敵な車を運転しているだろう彼の姿を思い浮かべて──ああ、今日は人生最良の日になるはずだったのに……!

 ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。無理矢理腕を引かれてバランスを崩し、よろけて──それを見て砂田さんがニヤリと笑ったのが分かった。
 私を抱きしめようと、大きく腕を広げてニタニタと笑って──嫌悪で吐いてしまいそうになる私の身体を、誰かが反対側にぐっと引き寄せる。

 ぽすん、と誰かの腕の中におさまった。

 たくましい身体と安心する体温に、ぱっと顔を上げる──端正な眉を険しく顰め、砂田さんを睨みつける徳重さんが、そこにはいた。

 ぶわりと安堵が全身を包む。恐怖ではなく、深い安心が涙となって頬を伝い落ちた。


「徳重さんっ……!」


 徳重さんの匂いがする。
 ほんの僅かに香る、彼に似合う爽やかな香り。それが香るたびに、安心感が更に膨らむ。

 徳重さんは私の後頭部をぽんぽん、と落ち着かせるように数度撫でてから、「お前! 風香ちゃんに何をする! 一体なんなんだ!」とキイキイ騒いでいる砂田さんに向かって──信じられないことを言い放つ。


「俺は彼女の恋人だ──貴様こそ彼女のなんだ?」


 思わず彼を見上げる。

 端正な瞳は相変わらず砂田さんを睨みつけていて──ああ、追い払おうとしてくれているのだとわかる。

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