カタストロフィ


うたた寝から目覚めた時には、馬車はすでにコッツウォルズに入っていた。
蜂蜜色の家がズラリと立ち並ぶその素朴な景観に、ダニエルは安堵感を覚えていた。
よく行った貸本屋や教会、歩いた通りを次々に視界におさめていくうちに、帰郷したのだという実感が湧いてくる。

(ただの帰郷じゃない、凱旋だ)

心の中でそう呟き、ダニエルは隣に置いてある愛用のヴァイオリンをひと撫でした。
スカラ座のコンサートマスター職を休職しヨーロッパツアーをするよう助言をくれたのは、パリ高等音楽院(コンセルヴァトワール)時代の師匠だった。

〝君ならフリーランスでもやっていける。物は試しで、一度演奏旅行をやってみたら良い。確かに社会的な立場は不安定になるが、オーケストラのコンサートマスターをやるよりも高収入になるだろう。一度やってみて、成功すれば退職し、失敗だったらスカラ座に戻れば良い〟

そう説得する師匠の熱意に負ける形で企画したコンサートだったが、大成功を収めた今、やって良かったと心から思う。
そして彼の言う通り、もはや自分はオーケストラという団体に所属せずとも、フリーランスで十分やっていけることがわかった。

たった19歳にして、真の意味での自由が手に入ったのだ。
ダニエルは、この道に進むと決意した11歳の自分に思いを馳せた。
そして同時に、己の人生を決定づけた恩師であり初恋の人でもある女性を想った。


(ああ、早く会いたい。声を聞きたい。罵倒でもなんでも良いから、紙越しなんかじゃなくって直に話しをしたい)


最後に来た手紙は、明らかに様子がおかしかった。
一体何があったのか思案を巡らす間もなく、ダニエルはメアリーからの手紙を読み答えを見つけた。
ユーニスがコンパニオンとしてお茶会に参加したこと、お茶会の参列者を知り、ダニエルは事態を察したのだった。


(僕のスキャンダルの話しが出たに違いない。参加者を考えたら、どこかのタイミングで、そういう話しが出てもおかしくはないし……ユーニスからの最後の手紙には明らかに怒りがこもっていた)


わずか16歳程度の子供が、何人もの貴婦人と関係を結んでいる。
そんなバカバカしい噂が社交界でまことしやかに囁かれているのを、ダニエルは知っていた。
そして知った上で放置していた。
なぜなら、噂になっている部分の半分以上は真実だからだ。

これまでダニエルと関係した貴婦人たちはいずれも共通点があった。
夫婦関係が冷め切っており、芸術、とりわけ音楽に造詣が深く、そして聡明だった。
誰もが認める美貌の若きヴァイオリニストが自分の恋人である事実は貴婦人たちの自尊心をくすぐったが、やがて賢い彼女たちは気づいていく。

ダニエルが、自分を通して他の女を見ていることに。
ダニエルは決して、自分から愛を語ったりしないことに。
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