愛人でしたらお断りします!


「マーマ、マーマ」と呼ばれるたびに、椿は嬉しくもあり、悲しくもあった。

優愛の口から『パパ』という言葉は聞くことはできないのだ。
今はなにもわからないだろうが、これから保育園に行き小学校へ上がる。
自分には父親がいないことを知る時がくるのだ。
その時までに話しておくべきなのだろうか。
もし娘から父親のことを尋ねられたらなんて答えればいいのだろうか。
まだ椿には答えが見つかっていない。

(そういえば……)

二年程前、蒼矢から聞かれた言葉の答えも知らないままだった。

『俺はなんなんだ?』

ふたりの関係を問われたと思ったあの言葉が蘇る。
あれはどういう意味だったのだろう。
まさか、あの頃から椿を‶愛人”にしたいと思っていたのだろうか。

(昔のことよ、もう忘れなくちゃ)

今日も一日たくさん遊んだ優愛は、すぐに眠ってくれた。

夜はひとり物思いにふける時間だ。
忘れたいと思いながらも、椿は過去の繋がりを考えてしまった。
お世話になった久保田夫妻には申し訳なく思っている。
それに長いこと、青山のル・リエールのシェフ柘植充嗣とは連絡を取っていない。
なにかの拍子でこの場所がわかってはと連絡を絶ったのだ。

ここから近い芦屋に住んでいる柘植律希は時々連絡をくれたが、彼は産まれた優愛のことばかり尋ねてきてプティット・フルールのことはなにも話さなかった。
もちろん、椿も自分からは聞いていない。
経済ニュースからも遠ざかって、会社の情報はシャットアウトした。
椿はこの温泉街で、ただのシャトンの菓子職人として生きていこうとしている。



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