敏腕パイロットは純真妻を溢れる独占愛で包囲する
はじめての夜
 可奈子が総司とはじめての夜を過ごしたのは、クリスマスマーケットから一カ月後。年末年始のハイシーズンを終えてふたりの仕事が少し落ち着いた頃だった。

 その日ふたりは、イベントへ行ってみようとか、あの料理を食べようとか、そういう特別な理由もなく予定を合わせて会ったのだ。
映画を観て、その後はショッピングを楽しんで、カフェに立ち寄った。

ごく一般的なデートだが、可奈子にとってはドラマや本の中でしか知らなかった世界で、本当に彼と恋人同士になったのだと実感した一日だった。

 そして夕食は彼が予約しておいてくれた、三つ星ホテルの最上階にあるフレンチレストランだった。

 あまりにラグジュアリーな雰囲気に、少し怖気付いた可奈子だが。

「今日は付き合ってからはじめてのデートだからね。それにたまにはイメージ通りのこともしてみようかと思って……黒服もいないし、プールもないけど」

 そう言って意味深な目で可奈子を見て、にやりと笑う彼に温かい気持ちになって、緊張の糸は解れた。

福岡ではじめて話をした時に、可奈子が総司について口走ってしまったことを思い出させる言葉だからだ。

 可奈子にとって大切な思い出であるあの夜のことを、彼がしっかりと覚えていてくれていたのが嬉しかった。

「ふふふ、プールはなくても、夜景が最高です」

「期待に応えられたかな?」

「はい」

 窓際の席で絶景を眺めながらの食事はこれ以上ないくらい美味しくて、夢のような時間だった。いくら話をしても、どれだけ彼を見ていても少しも飽きることはない。そしてそんな楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。

「そろそろ帰ろうか」

 時刻は午後九時を回ったところ。

いつもならそろそろお開きという頃になって腕時計をチラリと見た総司が、いつもの言葉を口にする。

福岡ではじめて食事をした際も彼はこうして遅くならないうちに切り上げてくれた。

 あの時可奈子は、下心など微塵もない紳士的な姿が素敵だと思ったのだ。

 でも今は、なんだかとても物足りないような残念な気持ちだった。

 このままずっと一緒にいたい。

 もっと同じ時間を過ごしたい。

 そんな想いが頭を掠めて、彼の言葉にすぐには頷けない。

 恋人同士になったのなら、もう少し先を望んでもいいだろうか。

 でもそんな気持ちをそのまま口にすることもできなくて、うつむいて黙り込むと、総司がフッと微笑んだ気配がする。

 そして、可奈子の欲しい言葉をくれる。

「遅くならないうちに送るよ、と言いたいところだけど、今夜は離れがたいな。……もちろん、君さえよければ、の話だが」

 その提案に、膝の上に置いた両手を握りしめて頬が熱くなるのを感じながら、可奈子はこくんと頷いた。

 ——そして。

 眼下に広がる宝石箱をこぼしたような都会の夜景を見下ろして、可奈子は冷たいガラスに手をついている。

ダークブルーにライトアップされたこのホテルは、この辺りではひときわグレードが高く目立つ存在だ。

毎日可奈子が空港へ向かう際の通勤電車の中からも見えるけれど、実際に訪れたことはなかった。


 最上階のレストランで食事をしたというだけで、なんだか少し世界が広がったような気がしたのに、まさか泊まることになるなんて。

 もう少し一緒にいたいという可奈子の想いを汲んで、総司がそのまま部屋を取ってくれたのだ。

 でも今可奈子の心を支配しているのは、望みが叶ったという嬉しさではなく、これから起こるであろうことに対する不安だった。

 あのまま彼と別れて帰ることに寂しさを感じたのは事実だが、いざこうなってみるとどうしていいかがまったくわからない。

不安と恐れ、そしてほんの少しの期待。たくさんの感情がいっぺんに押し寄せてどうにかなってしまいそうだ。

 だからといって、今さら引き返すことなどできないと、可奈子は自分に言いきかせる。
 大人同士の付き合いなのだ。

あの状況で"もう少し一緒にいよう"となったらどうなるか、いくら経験のない可奈子でもわかることなのだから。

 大丈夫、私にだってできるはず……。

 胸の中で唱えながら、可奈子が深呼吸をひとつしたその時、背後のドアがガチャリと音を立ててゆっくり開く。

 可奈子の後にバスルームを使っていた総司が出てきたのだろう。可奈子はそれを振り向きもせずに聞いていた。

 胸が痛いくらいに速く強く鳴りはじめる。

まるで身体全部が心臓になってしまったかのように、ドキンドキンという音が大きくうるさいくらいに耳に響いた。

浅い息を繰り返しながら、可奈子は夜景を見つめ続ける。

ゆっくりとこちらに近づく彼の気配を感じながら、ぎゅっと目を閉じた時。

「なにかいいものでも見える?」

 すぐそばから感じる低い声にびくり肩を揺らして目を開くと、夜景を写すガラスに両手をついた彼の腕に閉じ込められていた。

「熱心に見てるけど」

「あの……、えーと。家のマンションが見えるかなぁって思って探していたんです。たぶん、あっちの方向なんですけど」

 そう言って、可奈子は適当な方角を指差した。本当はそんなこと全然考えていなかったけれど。

「そう。ちなみに俺のマンションあれだ。わかる? 駅の向こうのちょっと高いやつ」

「あれですか? じゃあ、私の家は……」

 話をするようになってわかったことだが、母と一緒に住んでいる可奈子のマンションと総司がひとりで住むマンションは、空港までのアクセスに便利な同じ沿線の隣の駅だった。

案外近いことに驚いたが、考えてみれば可奈子の家は、もともとはパイロットである父の通勤に便利なように買った家。

だから同じ職業である総司のマンションと近くだったとしてもおかしくはない。

「明日は、あそこへ一緒に帰ろう」

 耳元で囁かれて、可奈子は吐息を噛み殺す。

同時にギュッと抱きしめられて、体温が一気に上昇する。このままここで、一緒に朝を迎えるのだと宣言されて、どう答えればいいかわからない。

 一方で明らかに慣れている様子の彼の振る舞いには、一抹の寂しさと不安を感じていた。
 このまま一晩を過ごしたら、可奈子があまりにも不慣れなことは簡単にバレてしまうだろう。

 あきれられたりしないだろうか。

 こうなるまで考えたこともなかったが、経験値の違いは男女の付き合いにおいてどのくらい影響するのだろう。

 黙り込んだままでいると、くるりとその場で回されて、向かい合わせにされてしまう。
少し茶色い綺麗な瞳がすぐ近くで可奈子を見つめている。

「怖い?」

 その通りだと答えることはできなかった。ここまできて、いくらなんでも、そんなことを言えるはずがない。

 総司が、さっきシャワーを浴びたばかりでまだ少し湿っている可奈子の前髪をかきあげて、額に優しく口づけた。

「怖いなら、なにもしないで朝まで過ごすだけでもいい。あせる必要はないんだから」

 優しい彼の言葉に可奈子は慌てて声をあげる。

「だ、大丈夫です……だって、ここまできてそんなこと……」

 できるわけがないと言いかける可奈子の言葉を、総司が遮った。

「可奈子」

 名を呼ばれて、ハッとして口を噤む。

 下の名前を呼ばれるのははじめてのことだった。

 総司が諭すように可奈子に語りかける。

「俺は君の気持ちを優先したい。君を大切にしたいんだ。大丈夫、本当の気持ちを言ってごらん?」

 大きな手が可奈子の頬を優しく包む。
 痩せ我慢している風でもなく余裕たっぷりに見える彼の姿に、可奈子は少し考えてから口を開いた。

「不安なんです。私……今まで男の人とお付き合いしたことがなかったので、なにもかもはじめてだから……」

 自らの経験のなさをはっきりと口にするのははじめてだ。

ここまで赤裸々に言わなくてもいいような気もするけれど、どのみち一晩過ごしたらバレてしまうだろう。

「き、如月さんとはちょっと差がありすぎます。だから、も、物足りないかも……。もしそうだったら、ごめんなさ……⁉︎」

 なおも言いかける可奈子の顎に突然手が添えられる。

ぐいっと上を向かせられてそのまま唇を奪われた。

 その瞬間、痺れるような熱いものが可奈子の頸から頭のてっぺんまでを駆け抜ける。

戸惑う可奈子の唇が、わずかに開いたその隙に、素早く総司が入り込む。

 可奈子の背中が大きくしなる。

「んん……!」

 唐突に訪れたはじめての衝撃に、狂おしい声が漏れ出るのを止められない。たまらずに膝を折ると、崩れ落ちる寸前で彼の腕に受け止められる。

「ん……あ」

 それでも、彼は許してはくれなかった。
 腰に回された逞しい腕とうなじに差し込まれた大きな手に、甘く縛り付けられたまま中を容赦なく掻き回される。

頭の中で白い火花が弾け飛ぶ。

 あまりにも濃厚すぎるはじめてのキスに、息も絶え絶えになるうちに、抱き上げられてベッドの上に寝かされた。

 冷たいシーツの感触を可奈子が背中に感じた時、ようやく彼は可奈子の唇を解放した。

「……ごめん、我慢できなかった」

 少し荒い息を吐いて、総司がそう囁いた。その表情からはさっきの余裕は消え失せて、瞳には飢えた獣のような獰猛な色が浮んでいる。
 出会ってからこの瞬間まで、紳士的な態度を崩さなかった彼がはじめて見せる一面に、可奈子の胸が高鳴った。

 額と額をくっつけたまま総司は一旦目を閉じる。小さく息を吐いてからゆっくりと開いた。

「可奈子、さっきの話はなしだ。もうなにもなしで君を帰してあげられない。……一生大切にするよ。だから今すぐ俺のものになってくれ」

 顎に添えられた彼の親指が唇を辿るたびに、ぞくぞくするような期待感が可奈子の全身を駆け巡る。

「一生……?」

 キスの余韻が抜けないままに、可奈子がぼんやりと呟いた。

「ああ、俺が可奈子の最初で最後の男になるよ」

 至近距離にある力強い眼差しが、可奈子の中にわずかに残っていた不安をあっというまに吹き飛ばす。

今までずっと可奈子が恋愛から遠ざかっていたのは、今目の前の彼にすべてを捧げるためだったのだと確信する。

「はい……お願いします」

 目を伏せて小さな声でそう言うと、再び唇を塞がれた。
 漏れ出る声も甘い吐息も、なにもかもを食べつくような彼のキスに、彼のシャツを握りしめて溺れていく。

「可奈子、愛してる」
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