月下双酌 ─花見帰りに月の精と運命の出会いをしてしまいました─

5. 月の世界で、杯を傾けよう

「お待たせいたしました」

 女官さんはそう言うと、部屋には入らず一歩下がる。暗月は無言のまま軽く頷くと、私の手を取りそっと引いた。

「おいで」

 たん、と澄んだ音を立て、背後で戸が閉まる。
 テニスコート並みの広々とした板張りの部屋に、飾り箪笥や衝立、長椅子などが配置され、ゆったりとした空間を作っている。足元にはいくつもの行灯。それらの柔らかな光と調度品の作る影が、ゆらゆらと揺れていた。
 そして正面、開け放たれた引き戸からは青い地球が見える。数時間前までは地球から満月を見上げていたのに、今は反対に月から地球を見ているのか。

「酒肴を用意した。先ずは杯を傾けようか」

 暗月がそう言い、正面の長椅子まで誘われる。卓上には小皿に盛り付けられたいくつもの料理。どれも彩り良く、美味しそうだ。そしてその中に、缶ビールとコロッケが。おお。

「良かった。私、ここ来る時にどこかに放り投げてきちゃったかと思っていたんだよね」

 コンビニで買った晩酌セットがちゃんと回収され、こうして供されていることにほっとした。ビールは冷たく、コロッケは温められて出されていて、感謝する。
 地球を背景に、高級感あふれるお部屋と品良く盛り付けられた料理。非日常的な世界がひろがっているのに、この二つの品で一気に宅飲み感がして、私の中の緊張が緩んだ。さっそくプルタブを開け、缶のまま乾杯をする。

 ビールで喉を湿らすと、なんだか急にお腹が空いてきた。
 そういえば、会社を出てそのまま暗月と再会したり、月に来たりエステをやったりで、結構な時間が経っている。よし食べるぞ、と思い卓上の料理を眺めるけれど、結局、真先にコロッケに手を出してしまった。骨の髄まで庶民派だ。

 もちろん他の料理も堪能して、美味しいねとか感想言って、しばらくは飲み食いに没頭した。暗月はそんな私を眺めながらのんびりと飲んでいる。
 そのうち私もご飯よりもお酒を飲む方に変わっていった。黄酒と呼ばれるお米のお酒で、代表的なのは紹興酒らしい。爽やかな酸味の軽めのものをいただいて、暗月にもたれかかり、無言のままで景色を愉しむ。
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