ヴァッサーゴの隻眼『雨の日の来訪者』

 ***

「わあ……良い香りですね。アロマオイル?」
「僕が調合したオイルなんだ。眠れない時にはコレが一番効くと思う」
「調合? 凄いですね、そんな事までやっちゃうんだ……。というか、成瀬さんって本当に司書が本業?」
「え、どうして?」
「実は本業……保育士か看護師か執事でしょ。人の世話焼くのが完璧すぎるもの」
「まさか。司書一筋だよ。趣味が多いだけさ」

 リビングのソファーに並んで座って。私達はアロマポットのキャンドルの灯りと、部屋の隅で灯るアンティークランプだけで過ごす。

 雨音は断続的に。

 成瀬さんの低い声は優しく。

 部屋にはアロマの、甘い花の様な香りが舞う。

 少しだけ沈黙が流れて、その静かな数分が音の無い子守唄みたいで心地良い。

「雨は苦手だったよね?」

 沈黙を破ったのは成瀬さんだった。

 すぐ横に座る成瀬さんを見上げると、彼は窓の向こうに視線を投げたまま。

 彼の目は、窓の向こうなんかよりもっと遠くを見ている気がした。

「うーん……苦手なのかな……? そういえば苦手かも。なんかこういう日って、鬱々としちゃいますよね」
「天候も、精神的な部分に訴えかける要素の一つだから」
「……はあ……。あれ?」

 自然なようでいて、でもどこかに引っかかりを覚える会話。

 雨は苦手か、という話だったけど……成瀬さんの最初の言葉は確認みたいじゃなかった?

『雨は苦手だったよね?』――?

「私……前に雨が苦手とかどうとか、話しましたっけ?」
「ああ、うん……」

 成瀬さんは即答で頷いた。

 そうだったっけ?

 私は考えて、雨について語った記憶があるか探る。

 でも、どうしても思い出せなかった。

 ここにきて一か月……勿論その内に雨の日だって何日かあった。

 その日の事、行動、思い出せる範囲の出来る限りを考えても、やっぱり記憶に雨についての会話があったか思い出せない。

 たわいもない会話過ぎて、膨大な記憶の海に沈んでるんだろう。

「よく覚えてますねぇ、成瀬さん」
「陽菜さんに関することは忘れないよ」
「……っえ」

 言葉が出てこなかった。かわりに頬が沸騰してしまう。

 私はそのまま「あ」とか「う」とか詰まった一文字しか出せず、しまいには視線まで泳いじゃって。

 これじゃあ「動揺してます」とバレバレだ。

 勝手にどんどん熱くなる頬が恥ずかしい。

 たった一言で馬鹿みたいに意識しちゃう浅はかさが、恥ずかしい……。

「陽菜さんのことならどんなことでも覚えてるよ。初めて会った時の驚きと困惑に満ちた表情や、戻れる場所があったんだと静かに喜んでいた瞳。ここに来た時の不安、図書館で見せた好奇心――」

 突然、成瀬さんの掌が私の頬に触れた。

 ひんやりした温度が熱くなっていたそこをふわりと包み、温と冷が混じり始める。

「……な、成瀬さ……ん?」
「――僕を見る……澄んだ眼」
「あ、あの……」

 心臓が止まるかと思った。

 もともと成瀬さんは距離に躊躇しないところがある。

 彼自身のパーソナルスペースは随分と寛容らしく密接距離は当たり前で、その距離の近さに何度度肝を抜かれた事か……。

 でも、こんな風に触れられたのは初めてだ。

 仄明かりの中でこちらを見つめる、前髪の奥に隠れがちな成瀬さんの目。

 目では何かを囁いてるのに唇から音は漏れない。

 そこから生まれた沈黙は、さっき感じた心地良さとははるかに違っていた。

 しっとりとした甘い気怠さ。

 何故こんな感覚を知ってるのか分からないけど、全身が蕩けそうになる。

 部屋に漂う甘い花の香りが、その感覚を更に強くさせていた。

 ……朦朧としてくるのは、のぼせ上った自分のせい?

 それとも、この部屋に蔓延する甘い香りと、成瀬さんが放つ妙な色気のせい……?

 どうしよう。
 クラクラする――。
 
「……ごめん。今のちょっと気持ち悪かったかも。忘れて」

 私は無言で首を振った。

「……あ。か、香り」
「香り?」
「これって薔薇とかですか? ……すごく良い匂いですよね。アロマオイル……」
「うん。……数種の薔薇をメインに誘眠作用のあるハーブ等を配合してる。それから――」

 場を誤魔化そうと自分から話を振ったくせに、私はそれをぼんやりと聞いていた。

 成瀬さんの声が、近くて遠い。

 時々急降下する意識を感じて、どうやら今説明を受けている通り、成瀬さんの作ったアロマが効いているんだと分かった。

「効いてきた? いいよ、寝てしまっても。ちゃんと部屋までつれてってあげるから」

 クスクスと小さな笑い声。

 え!? いま笑った?

 と、戸惑った瞬間にはもうソファーに転がっていた。成瀬さんに押し倒される格好で。

「……あ、れ?」
「僕は陽菜さんの方がいい香りだと思う」
「……いや、それはないですね」
「自分では気付いてないだけだよ」

 真上で微笑む成瀬さんを見上げつつ、眠気と怠さと気恥ずかしさに立ち向かう。

 駄目だ。あっさり負けそう……。

 押し倒されてるという緊急事態なのに、思考がまとまらない。

 これは……自分で思ってるよりも私は成瀬さんに心を許してる……から?

 ――いや、違う、単に眠い。とにかく、眠い。ただそれだけ。効き過ぎだ、成瀬さんのアロマ……。

 完全に夢の世界へ落ちそうになってた私。

 瞼の重さに耐えきれなくなってきた時、耳へ急に強く降り出した雨音が飛び込んできた。

 風もあるのか窓に打ち付ける雨粒の音が聞こえる。

 ああ、そうか。そう言えば今日はずっと、

「あめ……」

 ぼそりと呟いた私に、成瀬さんはピクリと反応した。

「私……、本当は雨苦手っていうより……キライなんですよね」

 眠れない夜のお喋り会は、いつも雨の日開催だった。

 雨の日にはいつも“ヨクナイコト”が起きて、気分は落ち込み、そして心のどこかで「ああ、やっぱり」と思った。

 ジンクスはついてまわる。重なれば重なる程、呪いなんじゃないかと一人で頭を抱えた。

 だから眠れなくて。

 はしゃぎ疲れてルームメイトが寝てしまうと、私はひたすら眠りが来るのを待った。

 待つことを諦めたのはとっくの昔なのに……。

 エンドレスに続く嫌な気分。

「雨はキライ」
「陽菜さん……」

 成瀬さんの声を聞きながら、私の意識は落ちていく。

「ふふっ……でも可笑しいんです。今日は成瀬さんのおかげで待ってない。嫌な日だったのもついさっまで忘れてた。効きすぎですよ、成瀬さんのアロマ……」
「待ってない?」

 微睡む時間はほとんど無かった。

 不思議そうに呟く成瀬さんの表情はもう見れなかった。でも、そのかわりに優しい音が目を閉じた闇の中に降ってきて。

「……おやすみなさい。陽菜さん」

 おでこに、あたたかな温度が触れたような気が、する……――。
 
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