サクラ、咲く
奈落と戸惑い


それは突然訪れた




「咲羅ちゃん」


翔樹の部屋で『桜』にオイルを吹き付けていた私に

ノックと共に入ってきた琴さんは
表現し難い表情を見せた


「どうかしましたか?」


「なんだよ、突然」


ソファに座っていた翔樹も反射的に立ち上がった


「あの、ね。あっちの玄関に咲羅ちゃんのお母さんが来られているの」


「・・・っ」


「どういうことだ」


「『迎えに来た』ってそれだけで」


あぁ、そういうことか、と思った
嫌な予感は子供の頃からよく当たる
ま、それも立川の家限定だけど


きっと母は姑であるお婆ちゃんに迎えに行けと指示されたんだと思う

でなきゃ此処に来るはずがない


「ご迷惑をおかけしました
私、帰りますね」


「咲羅」


「だって、私が行かなきゃ“あの人”テコでも動かないと思うわよ?」


「・・・それで良いのかよ」


「他に手があるの?」


「・・・」


「咲羅」


「ん?」


「俺が頼んでやる」


「いいの、あの人頑固だから」


“連れ戻される”感覚に更に嫌な予感もするけれど

あの人のことだから“帰らない”と突っぱねたことが原因で
警察沙汰にでもされたら此方に迷惑がかかる


だから・・・


「お世話になりました」


選択肢は初めからなかった


部屋の隅に置かれているキャリーバッグを取ると


「俺が」と翔樹がそれを引いて


反対の手は私の手と繋いだ


・・・帰りたくない


私を迷わせるのは翔樹の温かい手


一緒に居られるのが残り僅かなのに
なにを話せば良いかよりも
頭の中は真っ白で


「消毒、忘れんなよ」


「うん」



結局、交わしたのはこれだけ


広い玄関に着くと不機嫌な母が
翔樹と繋いだ手を見て怒りを露わにした


「どういうつもりっ!」

「立川の娘として恥ずかしくないの!」

「お義母さんに合わせる顔がないわ」


立て続けに吐き出されるのは体裁ばかりで


ため息を吐き出すと靴を履いて振り返った


「お世話になりました」


「最後までお世話ができなくてごめんね」


「いえ、ありがとうございました」


「咲羅」


「翔樹も、ありがとう」


ついて来てくれた琴さんと翔樹にお礼を言って


「皆さんにもよろしくお伝えください」


もう一度頭を下げた








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