姫の騎士
 壁に背中を押し付け影に身を沈めた。
 足が痛い。息が苦しい。
 自分を過去の汚点とみなした男に見つかりませんように。

 だが、アリエスの願いもむなしく、アリエスが身を潜める路地の入り口に人影が仁王立つ。
 その顔が逆光で見なくても、その身体のラインだけでわかってしまう。
 その輪郭から炎のように燃え上がる熱気が、アニエスには見えた。

 アリエスは、呼吸も落ち着かないままに、弾かれたように走り出した。
 路地の先には行き交う大勢の人の姿が見えた。
 この道は広場に続いている。
 苦しかった。
 吸っても喘いでも、足りなかった。
 あそこまで行けば、再び人混みに紛れられる。
 彼から逃れて、彼との幸せだった思い出だけを抱きしめて、これからの人生を静かに生きたいだけだ。
 自分からすべてを奪わないでほしい。


「アニエス!俺から逃げないでくれ!」

 広場へあと一歩のところで、アリエスは腕を捕まえられた。
 足が絡まった。
 背後から逞しい腕がアリエスを抱きとめた。
 こんな瞬間でもその腕が恋しいと思ってしまう自分は哀れだ。
 全力疾走をしたために汗が吹き出し、心臓が暴走していた。
 身体にぐるりと巻き付いた強い腕がきつく絞まり、肺を圧迫し、息ができなかった。
 このまま、窒息して死んでしまうのかもしれない。
 男の息も荒いが、数呼吸で落ち着いていく。

「アニエス、俺のアニエス。どうして俺から逃げようとするんだ」
「どうしてあなたこそ、わたしを犯罪者のように追いかけるの。お披露目を兼ねた、初めての仕事でしょう」

 そこまで言うのも切れ切れである。

「あなたをみつけたからだ」
「あの人混みの中で見つけられるはずがないわ」
「あなたの赤黒のリボンがあなたの場所を教えてくれた。この模様のリボンを身に着けているのは俺と、あなただけだ」
 アニエスは唇をかみしめた。
 その通りだったからだ。
「わたしを見つけたとしても、何か言いたくても、パレードを抜けるべきではなかった。そのために、せっかく手に入れた姫騎士から降ろされたらどうするの」
「今ここで、あなたをこの腕に抱く以上の、大事なことはないからだ。俺が夢を追い続けられるのも、姫騎士を全うできるのも、あなたが俺を受け入れてくれているから」
 
 セルジオは腕の檻からアニエスを逃さない。
 そのままアニエスの前に回り、アニエスと向かいあう。
 アニエスは、セルジオが何度も何度も自分の名前を口にしていることに気が付いた。
 彼がいままで自分の名前を呼んだことはなかった。
 今や、セルジオはアニエスの首に顔を押し付け、震えていた。
 人生の夢を掴んだはずの男の恐怖が伝わってくる。
 パレードで絵画のようだった姫の騎士と、しがみつくように抱きつき震える男とが同一人物であるとは思えない。
 アニエスは戸惑った。
 男はアニエスにとどめを刺しにきたのではなかった。
 アニエスをアニエスの人生ごと、たくましい腕で熱い胸で抱きしめにきたのだ。
 
「ひとかけらでも俺を愛する気持ちがあるのなら、どうか俺を見捨てないでくれ」
「セルジオは、栄誉ある騎士なったのだから、これからは愛してくれる女なんていくらでも……」
「姫の騎士から解放されたとき、俺の足、俺の気持ちが向かう先はあなただけだ。今までもそうだったように、これからもずっと。この確信は揺るがない」

 セルジオからの告白に、アニエスは首を振る。

「あなたのために作った赤黒のリボンを、もう一つ作ったの。わたしもそしらぬ顔で身に着けて、誰かがあなたの胸のリボンと同じものだと気が付いてくれないかと願ったわ。もしかして赤毛の騎士とあの女は関係があったのかしら?と察してほしいなんて願うぐらいのくだらない女なのよ」
「俺と関係があると思われたいのか?そんなことで願いが叶うのか?俺はあなたのものだ。あなたが喜ぶのなら、俺はお前を愛していると叫んで回ってもいい」
「駄目よ、セルジオ。そんなことをしたら騎士の品位が疑われてしまう!わたしに本気で好きだという男は、いつも別に本気があって、わたしはいつも取り残されてきた。わたしは今度も間違いたくない」

「アニエス、その男たちの本気は本気ではないよ。本気の男の好きは、夢を手に入れた上で、その夢を失ってしまうかもしれないとわかっていても、手に入れずにはいられないというのが、本気の好きだ。そんなくだらない男たちの事など忘れてしまえ」

 彼が自分を幸せにしてくれるかどうかはわからない。
 アニエスは彼に幸せになってほしいと思う。
 彼の幸せのありどころが、姫の騎士にあると思ったから離れた。
 だけど、彼が自分と共にいることにいくばくかの幸せを感じるのならば。彼の本気が、これまでの人生のなかで一番自分が欲しいと願ったことだった。
 涙が溢れだす。
 彼の自分に向かうこれ以上ないというほど真剣な顔が、ぼやけてしまうではないか。

 セルジオはアニエスの涙を指で拭い、頬を撫でた。
 彼の指は熱い。
 触れられたところから火傷をしていくようだった。
 彼は、アニエスに情熱を分けてくれる。
 彼のいない人生は、本当はアニエスにだって耐えられそうになかった。
 それでもいわずにいられない。

「わたしのために、努力してつかんだ夢を捨てないで」

 本当は騎士になっても自分と一緒にいて欲しいと言いたかった。
 姫の次でもいいから、その身のうちからあとからあとからあふれ出す情熱のほんのすこしでも自分に分け与えて欲しい。

 セルジオはアニエスの唇にやさしくキスをする。
 冷えすぎるアニエスの心に情熱を吹き込むキス。

「申し訳ないと思うのなら、今すぐあなたを抱かせてほしい」

 パレードの喧騒は遠く過ぎていく。
 途中ですれ違った者たちは、赤黒の豪奢な騎士のセルジオを目にして、振り返った。
 アニエスはセルジオを荷物が片付いていない新しい自分の部屋に招き入れた。

 セルジオは、荷物を押しのけて場所をつくる。
 アニエスを、何度も何度も抱く。
 アニエスは、セルジオの熱に炙られ焼かれた。
 彼が、いつもは自分に合わせてくれていたことを知る。
 セルジオは、とても自分では受け止めきれないほどの、燃えあがる情熱と火傷しそうな激しさを持った男だった。
 

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