サレ妻は永遠の痛みに晒される
2、真実
2、♢♢♢真実♢♢♢


「じゃぁ、5人かな⋯⋯  」





彼が弱々しく苦笑いしながら、それでも訂正した。
誤魔化しだ。
だから私は彼の訂正を全く聞いてもいなかった。

私は扉を引っ(つか)んだまま、隙間を無理やり広げていく。


 え?
 6人?
 どうして?
 おかしい


別に元カノの数なんて、何でもない話、私が苦しくて気になると言うだけで、数が増えてさえいなければ、どうでもいいよ。もういいよ。

なのに。
結婚後に増えていた?
彼の過去の恋人。

増えるはずないじゃない、と呆然と彼を見る。
隣に横たわって、大きな手をしまったって感じで額にあてている、その下には形良い鼻と、ちょっとイラついてる唇。

長い指が前髪をかき上げて、また戻って、またかき上げた。
手首の骨。
首筋から骨張った鎖骨と広い肩。
あげている腕の肩から上腕の筋肉が動いて、腋窩(えきか)の男らしさが脇腹に続いている体は、薄い掛け布団で下ですらりとした形しか分からない。
この彼の体は私のものだ。


 だって3人、1人、1人、
 えっ? もう1人⋯⋯


なぜ。
呆然としながら、寝そべる彼を見ていて、その姿がいつかの姿と重なる。

確信を持って分かったのは数年前のあの日の彼。

彼が何だか真剣に『好きだよ』って言ってきて、愛し合った後に果てて上を向いて寝転んでいた時だった、なぜか彼が泣いた、あの時だって思った。

彼が少し唇を震わせながら泣いていた。
親指と中指で目頭を押さえて、私がそっと手を取ったら、彼の目が真っ赤になっていた。

だから、どうしちゃったの、って、何だか慰めたくて、私は優しくキスして、顔中にも体中にも、どこもかしこもキスしてたどって慰めた。私の出来る事なら何だってしてあげたかった。

そこを唇で辿った時、彼は少しだけ身を(よじ)って、顔を手で覆ったまま「悪いよ」と低い声で呟いた、いつももっと深く含むのにな、悪くなんてないよ、いつもじゃないって、優しく笑いながら続けた。
彼はそのうち観念して、大人しくされるがまま、私で慰められて癒されていった。

何度もした行為の後、何度も好きだよと言われていた数え切れない時があったのに、なぜかその光景だけをはっきりと覚えていて、ここに違いないとその時だけが切り取ったように思い浮かぶ。


『君が好きすぎて泣いたんだ』


と彼は震える声で言った。

何かあったのかな⋯⋯ って心配に思って、まさか具合が悪いわけじゃないよね? 大丈夫? って言って、額に手を当てて熱を確かめた。男らしく秀でた額の温度すら覚えている。
大好きな生え際に手を入れて彼を撫でた。

信じたかったから、頭をよぎる違和感に目を(つぶ)って愛に溺れた。

 あれは私に対しての罪悪感だった
 あれは後悔の涙⋯⋯

結婚1年目の秋。
だから3年前の秋。
3年前。
じゃぁ、やっぱり、


 あの人? 
 まさか、
 あの新入社員?
 カノジョ⋯⋯


⋯⋯ 。
息が苦しい。
苦しくて苦しくて体中が震えた。
『誰と? 』
っていう答え。

もう私はこれ以上ないぐらいにはっきりと確信しながら、否定しか欲しくない、もしかしたら違うかもしれない、そんな事してないかもしれない、って縋るような思いで彼を見る、嘘でしょって目をじっと見たら、彼は黙って苦笑いしようとして、それがつっかえたような変な表情になった。見たことない彼の顔だった。

目の前に、まるで今、見ているかのように、3年前に見た光景がくっきりと見えて、目の前が塗りつぶされる。

あの時だ⋯⋯ 。
直感。

彼の手を、爪をたてるぐらい強く握りしめながら、でもまさかね、違うよね、違うって言って、してないよね、って思いながら、


「いや、⋯⋯  」



と彼が、否定をまるで装うような肯定を、もう負けて認めた人みたいな、喉が苦しそうな声で変な返事をしたから、ただの直感じゃなくて真実、本当なんだ、

まさか、

しかも、

一番嫌なタイプ。

彼だって分かってたはずだよ。

だって、何度も何度も何度も、何もないと信じてたって、カノジョの事嫌がったじゃない、私。

言ったよね。

聞いたよね。

だから、分かってるよね。

それがどれだけ残酷なのか。

もう、こうなるんだと、すでにあの時にも知っていたかのように、私は嫌がったじゃない、ちゃんと言ったじゃない、私の直感を笑ってたじゃない⋯⋯ 。





なぜあの時。

なぜ、まるで予知でもしていたかのように私はあのコーヒーショップにいたのか。
起きてもいなかったのに、こうなるって実は彼より先に知っていたんだろうか。

彼の会社の入り口にあるコーヒーショップ。

近くに用事で行っていたから、彼をびっくりさそうかなって窓際に座って待っていた。
ちょっと彼の気にしている新入社員を確かめたかった、多分、本当はそうだった。

それより以前にも、彼に言わずに帰りを待っていて、その時は全然、迷惑な事じゃなかったから、ただいつもみたいな彼に会いたかった。安心したかった。

私を見たら彼は喜んで、いつでも来てってまた言うから。

でもエントランスに彼の姿が見えて、あ、私に微笑んだ、って急いで立ち上がりかけた時、ぎゅっと喉の奥に私の笑顔が押し込められるようだった、そのまま笑みが凍りつくみたいに張り付いたように感じた。

違う、私じゃない⋯⋯ 。

彼は一緒に歩いている女性に笑いかけていた。
4月入社の新入社員ってあの人だ。
絶対そうだった。
それはまるで説明されたみたいに明らかだった。

私よりかなり背が高い女性。
スポーティーなかんじ、
全然私と真逆みたい、
テニスが得意で、

 一番嫌いなタイプ。

スラリと引き締まった真っ直ぐな体。
長い手足。
地味な普通のパンツスーツをすっきりと着ていて、マッシュショートボブの軽やかな髪。

 許せないぐらい嫌なタイプ。

健康的に日焼けした肌。
私より1つ若くて、素直な自然体ですよ、私はお化粧もしていないです、嫌味さが全然無いんです、って、彼側のその髪を長い指で耳にかけて耳殻が綺麗に見えて、既婚者と平気で親しく話すような、

 本当に嫌なタイプ。

彼と2人きり。

寄り添うような、何なの、そのしぐさ。

たまたま?

なのに彼はカノジョしか見ていない。
だってすぐ近くにいる私にも気が付かない、

そのまま歩いていく。
夜の通りに消えていった2人の後ろ姿。
カノジョの髪がわざとらしく軽やかに揺れながら、全然わざとらしくないような風に自然に見上げるように、横に寄り添う彼を、もちろんわざと何度も見つめる。
彼はほんの少し顔を下に傾けて、カノジョを見ている。
笑い合って、背の高さがちょうどだった。
たぶん、あの日。

それを見て、あ⋯⋯ 今日は会社の人と晩御飯を食べるねって言われていたんだって思い出した。


 まさかカノジョと2人だった?
 そんなことないよね


少し遅めに帰ってきた彼に本当は居ても立っても居られないぐらい、ジリジリしていたのを隠して何でもないように聞いたら、
『他の人もいたよ』
って言った。
『会社のコーヒーショップに実はいたんだ』
って言ったら、彼は普通に
『声かければよかったのにね』
って言ってた。
でも、少しだけ彼の声が掠れていた、後ろ姿が頑なだった、だから表情まで見えなかった、
あの日だ。

あの後どうしたっけ、
愛し合った?
私たち?
まさか、そんな後だったの?
なぜ、その日にどうしたのかは、なぜ、覚えてない。
なんでか覚えてない。
思い出せない。
何か跡があった?
分からないよ、あったのかもしれない、やだ、あったら見つけてたかもしれない、なかったよそんなの、
でも間違いない。

 《君に悪いよ》

って彼の押し殺したような声を、まざまざと思い出した。その声を決定的だと呆然と感じた。
 悪い⋯⋯
その後だったから、
私が慰めたから、
辿って、
含んで、
そんな事があった後の⋯⋯ 。



「なんで、わかるんだ」


と彼は(かす)れた声で(つぶや)いて、目を閉じて苦しそうに自虐的に笑った。
肯定、
やだ、肯定しないで、
怖い、
本当になってしまう。


「君にはやはりわかるんだ」


って。
『しょうがないな』
って。
『オレを理解してるんだね』
って意味。

愛してる、だから分かるんだねって。





あれから。
あんなにカノジョに惹かれているような気持ちで困ってソワソワしていた彼は妙に私への愛で自信ありげになって、カノジョの話もしなくなったから。

私はほっとしていた、何だかよかった。
やっぱり愛してるんだ、私のこと。
なんだ。
何もないよ。
気にしすぎだったよ。
って。

だけど。

それが今となっては浮気した後、ただカノジョと気まずくなって決別してたからなんだ、と分かった。

彼が泣くほど後悔した。
私に悪いと言った。

あぁ、それに⋯⋯ 。
背の高さを話していた時も、あの時だったのかもしれない。
繋げて考えた事がなかった。
意味があると思いたくなかったからだ。
考えないようにしていた。
それでまさかと思いもしなかった。
でも、別のこととして繋がりのあるその出来事を、まるでこうなるのを知っていたかのように、くっきりと覚えていた。

どれも私の中になぜか残っていて、その点と点が綺麗に結ばれて、あぁ、あの時。あぁ、あの日。取り返しのつかないあの日、見かけて消えた2人は取り返しのつかないことを2人でしたんだ、寝たんだ、寝たんだ、なんで。
その2人を見送ってしまったんだ、あっさり見送ってしまった、たぶん、私。


 なぜ出来たの?
 え、? 嘘だよね?
 勘違いだよね?
 え、?
 やめなかったの?
 やるまでに至ってしまったの?
 たとえ途中でも
 我に帰る瞬間があったんじゃないの?
 私のこと思い浮かべる一瞬が
 あったんじゃないの?
 私を愛してるんじゃないの?
 カノジョが好きだったの?
 なぜ。


「いや、そんなんじゃないよ」


 そんなんじゃないって何?
 キスしたの? ねえ、キスしたの?
 服は脱いだの?
 カノジョに触れたの?


「いや⋯⋯ してないよ」


 どこ行ったの?
 ホテル?
 泊まったの?
 どこ?


「部屋かな、カノジョの」


 なんで、やめなかったの?
 カノジョはハジメテだった?
 あなたがハジメテだった?
 ねえ、なんで?


「いや」


 つけた?
 まさかそのまま、そのまま?
 やりたくて買いに⋯⋯


「相手が持っていたんだ」


 背は?
 足の長さが?
 私と?
 私より、足の長さが、
 違った?
 背が高いから
 私より、私より、私より、


「⋯⋯  」


 なぜ?
 どちらからしかけたの?
 なぜ、
 なぜあんな2人連れで、
 何でカノジョの部屋なんて行ったの?
 見下ろしてた、
 カノジョを、期待を含んで、
 2人きりで歩きながら、
 見下ろしてたのよ、あなたは、
 なんで?


笑い合ってた、だから、鮮明に覚えてる彼の笑顔。
隣のカノジョに頭を傾けて見下ろしていた。男らしくて精悍(せいかん)で色気を含んだ大人な彼の視線。
肩と肩が触れそうなぐらいの距離で、それを(いと)わないような2人の関係。
背の高さが丁度良かった、彼が正にそう言ってたように。

大丈夫な事をいちいち問い詰めるような、そんな妻でいたくないから、信じてたから、あえて、わざわざ、普通のことだと言い聞かせて見送った2人、あの日、あのあと、あの時、

もしも、私が大声で彼を呼んでいたら⋯⋯ 。

いや、

私の抑止が無くたって、そんな事、

そんな関係じゃ、

私たちの愛は、そんな情けなく脆いものじゃ⋯⋯ 。


「一生、言わないつもりだったのに、君が言わせた⋯⋯  」


本当なの⋯⋯
やだ、まさか本当なの⋯⋯ ?

一瞬、どうしていいか分からないぐらいの、吐き気のようなもので、吐きそうになった。

まるで私が悪いみたい、聞き出したのが悪いみたいだ。そんな事を事実にしておいて。


「君を傷つけたくなかったから」


じゃぁ、見えなければいいのか。知らなければ無かったことになるのか。
聞き出すのが悪いのか、知る方が余計なのか。

そう言った彼の性質は知っていたのかもしれなかった。甘さで私を愛する人だから。甘くて優しい。傷つけないように体を張って私を守ろうとしてくれてる人だから。

彼が私を愛しているのは確かだ。

なのに、なんで。


「もう、よく覚えてないんだ」


と彼は軽く目を閉じて、眉間に人差し指と親指を当てて、低く言った。


「忘れてしまったぐらいだ。一度だけ、それも白けて言葉もなく部屋から帰って、それきり話もしてない。後悔しかなくて、覚えてないぐらいなんだ」


聞いてわざわざ思い出させるな、覚えていないんだから、わざわざ問い詰めるな、
覚えている必要もないぐらい、覚えていられないぐらい、オレにとっては無意味でささいなんだよ、って、彼の顔も眉も声も、低く固い声で、見た事もないぐらい後悔しながら、彼は楽になりたがってる。


「君を愛してるとはっきり分かっただけなんだ」


白けるぐらいならなんで、とどまることもできただろうに、後悔するぐらいなら、なんで⋯⋯ 。


「こんなに安全な男はいないよ? こんなに君を愛している男はいない」


と自虐的に、自信ありげに、だってやってみて後悔しかしなくて君を愛していて、もう間違わない自分だから、こんなに浮気しない男は世の中にいないんだと妙な愛の確信を私に伝える顔。

裏切ったくせに、逆に自信を深めている。

ほんと
まさかほんとだった。

うそ

やだ、ほんとだなんて、どうしよう、

無理やり聞き出したのは自分だったが、どこかで自分自身を知るように彼を知っているんだと思っていた。
だからそんなことありえないって100パーセント思ってた。だのに、無理やり聞き出そうとするような勘、というか綻びというか、に苦しめられていたから、ああ、やっぱりそうだったんだと言う落胆に、一方で実際に不確実だった事が本当になったと妙な安堵。事実がわかったという納得と、事実だったんだという残酷な現実。

体がもぎ取られたような痛み。

お腹の横の脇腹かな、肩甲骨あたりの背中かな、大きな獣の爪で肉が引きちぎられたような痛みだった。


 なんで


「もうしないよ、」


と、絞り出すように彼は言った。


 だって、
 最後まで⋯⋯ したの?
 時間をかけて?
 果てたの?
 あの人の中であなたは⋯⋯ ⋯⋯


彼は、


「もうこれ以上は可哀想だ、君が」


と悲痛に言いながら腕を伸ばして、それを私に言わさなかった。私の気持ちを思いやって、優しく彼の全部で慰めるみたいに私に触れた。
彼に私が守れるとでも思っているのか、でも、これはこの人の本心で私への愛だった。


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