サレ妻は永遠の痛みに晒される
4、結果
4、♢♢♢結果♢♢♢


 朝になっていた


清々しい空気が、新しい朝の始まりを感じさせながら、明るい日差しと共に2人の部屋まで入ってきた。
朝日がどんな風にこの部屋を照らすのか、私はよく知っている。

私達は玄関で抱き合っている。

今、目覚めた人も、私達のような朝を迎えた人も、平等に否応なく、まるでページをめくったみたいに新しい1日が始まる。

きっとこの後、手を(から)め合うように繋いで2人の家の玄関を出たら、これが最後になるだろうと冷静な事実としての予感がした。


 「あっ、」


玄関で少し(つまず)いただけ、でも彼はすぐに支えてくれた。
馴染んだ彼の手の長い指の一本一本、どの指も胸が痛くなるほど愛しくて大切に思う。思わず手を重ねて触ったら、あたたかくて、優しい指が握り返してくれた。

 カノジョにもふれたゆびだ

激しく愛し合った後はいつも、気だるくて、内側からじんわりと充足した満ち足りた体を、それを共有した2人の甘やかな空気が包んでいる。
特別な特別な甘い共有感だと思う。

こんな空気に彼を見上げたら目が合って、彼の腕に抱き寄せられた。

朝までほとんど眠っていない。
起きていたのか寝ていたのかさえ、自分でもよく分からない。

朝まで泣いて、泣きつかれた私の側から彼は離れず、ずっとずっと長い腕に囲って抱きしめてくれていた。
ほんのちょっと動いても、彼の体のどこかに触れて、その度に彼を意識していた。

爪が当たっても、振り払っても、しがみついても、どの動きも彼が必ず受け止めてくれた。

唇から、私の悲鳴を、必死で抜き出してくれるようにキスして、痛みを和らげるように出来ることはなんだってしてくれる。
私が大事で離したくないからだ。

 泣かせたのは彼なのに⋯⋯
 ばかみたい

彼はすごく私を(いたわ)りながら、起きてからも手を添えて、支えて、甘やかすように、大切に私を扱った。

玄関のドアの前で長いキスをした。
朝とは思えない充分に夜を連想させるような執拗な深いキスだった。
吸い付いて、絡みついて、中身も心も全部全部引き出してお互いを混ぜ合うようなキス。

彼の柔らかい形いい薄い唇が、湿気を含んで私の唇から名残惜しそうにやっと離れて、でもまだ頭にキスされて、


「待ち切れない、今夜も」


と囁いて切なそうに離れ難く離れた。
続きは夜だ。
いつもみたいに仕事があるから。
だからここから出ないといけないよ。

 いやだ⋯⋯ はなれないでよ⋯⋯

彼が私の肩を片手で抱いたまま、ドアの取手に手をかけ扉を開けている。

 あけたらだめなのに

まだ中に立っている私の手を取って、導くように外に出てドアを閉めた⋯⋯ 。

カチャ





透き通ったような朝の空気。
柔らかい風が髪を揺らす。
まだ付き合い始めた頃の、ハジメテの翌朝によく似ていた、
ぎこちなく冷め切らない体と、離れ難い気持ちで、どんなに人がいても、お互いしか見えていない2人だった。
それは今もだった。

名残惜しく彼は会社に行く。

私は⋯⋯ 。

微笑んで別れている。
この笑顔が最後なんだろうって感じてる。

  いやだ、いかないで⋯⋯

彼は、こんな私を一生失う。
こんなに愛する私を失うんだ。

辿り着いたと思った2人の終決は、こんなに愛を確かめた私を失う事で、彼を徹底的に傷つけてしまうだろうという事だった。
彼は取り返しのつかない後悔の中に一生いればいいんだ。

愛してる。
だから、別れて相手の幸せを祈れる人なんて、私には想像もつかない。





駅で甘やかに手を振られて1人歩きはじめた。

それまで、最後だ、とはっきりと知っていたのに、彼が手を振って見えなくなった瞬間まで、永遠に一緒にいる愛する人だと思い込んでいたみたい、嘘、いない、彼がいない、今からもう彼はいない。

血を吐くように声にならない悲鳴を上げ、胃の中のものを道に全部吐いた。
彼を思いながら。

たった今、駅で別れて一瞬でもう彼が恋しくて、体が求めていて、愛しくて一番憎い。
なぜ他の子を抱いたの?
なぜカノジョだったの?
途中で、なぜやめなかったの?
ただ愛しい私との日々の延長の、どこにそんな日があり得たの?

 私との未来も
 子供も
 家族も
 全部なくなる
 私を愛しているあの人から

 一生、後悔を感じていればいい
 私を失って不幸になればいい

 彼はやめられた、途中でもいつでも
 そもそもカノジョの部屋になんて
 行かなければよかったんだ
 能動的だったんだ
 体の相性が良ければ、どうだったというのか

 結果白けたのは当たり前だ

 私がいいという事なんて
 そんなのとうに分かっていたはずだ

 たった一度
 許せばいい?

 許すってなに?
 無かったってことにするってこと?

 彼は抱いた
 そこに至るまでのその全てを
 それだけの感情や欲や、気持ちを
 彼が他の女性に向けた浮気を
 やめられた、とめられた
 愛する私を裏切る事だった
 不倫だった
 その全てを乗り越えて、彼らは結ばれてる

 少なくとも、彼はカノジョを愛した

 それを?

 ゆるす?

 いっそどうにかなってしまおうか
 いや、どうにかなってもらうのは、彼の方だ

 咎人(とがにん)


明け方、少しため息をつきながら彼は言った。


 『もう、3年も前なんだよ』
 『だから言わなかったらよかったんだ』
 『君を選んでる、オレはずっと』


彼の方こそ、ただ、やらなければよかっただけなんだ。

彼はもう過去にして、前に進みたがっている、というか、彼にとってはもう3年も前の、とっくに過去なんだ。

温度差があるかもしれない。
今頃になって一人で騒ぎ立てているみたいだって。

知らなければ傷つけてない事になる。
年月が経てば終わった事になる。
知れば逆に私が傷つく。
私を守らなければならない。

彼のその全部の解決が許し難いと思った。

だって、やっぱり結局のところ、ちゃんと気づくじゃないか、いつかは。
こんな風に。
無かったことになんてならない。愛してるからいつか分かる。
ずっと違和感を感じ続けて、彼の本当を探し求めて、彼の全部が欲しくてたまらなかった。
苦しくて苦しくて、痛くて痛くて。

知らないふりをして、本当はずっと知っていたものが明らかになっただけだ。

彼の後悔が、ずっと行為の時にも一緒に過ごしている時にも、普通に話してる時にも、永遠の話をしている時も、ずっと何か見えないものを間に挟んでいるような、付きまとっていた不安や違和感を感じさせていたんだ。

たった一度だったという彼とカノジョの事を、私達はずっと間に挟んでいたんだ。
二人きりなんかじゃなかった。

だからそれがなくなった昨日の愛と、それ以前ははっきりと違っていた。

そうでありたかったな。
そんな私達のはずだった。

古来から幾人がこんな痛みを味わってきたのかな。こんな痛みに(さら)されたのだろうか。

みんな、どう結末をつけたんだろうか。

ある人は許す。
またある人は許さずそれでも共にいる。
別れて許す。
別れても許さない。

私はきっと別れても許せないだろう⋯⋯ 。





会社でアルバイトを辞め、その足で私は役所に来ていた。
薄い紙を1枚。手にして眺めている。
生涯、目にするはずがなかった届け。

私達、特別な関係だったから。
こんな紙、いらなかったよ。
2人きりの純粋な愛を永遠に誓ってた。
それは神聖でもあった。

夫婦。家族。
急にその間に同じ近しさの人間が入り込むことなんてありえないような関係を誓っていた。

私と彼。
夫婦の間。
彼はここに、カノジョをずかずかと入れ込んだ。そういう関係の女性を入れたんだ。
ずっと私と同列の人間の存在が間にあった。

それは私への冒涜(ぼうとく)だ。

この悔しさ。

 悲しくて
 苦しくて
 痛い

でも誰にも相談なんてしない。
これからも私はしない。
数多のありふれた不倫にカテゴライズされるのが我慢できない。
誰にも言いたくないし、言えない。
不倫があったなんて事実みたいに口にしたくない。現実になってしまうから。
ただのありふれた不倫だなんて認めたくなかった。
そんな事から全く無関係な私達2人だったはずだ。
こうなっても、まだ彼の不倫を認めたくなかった。

だのに、声を大にして叫びたい。
彼の親に、友達に、会社の人に、世の中の人に、彼は不倫した、そんな咎人なのだと、泣き叫びたかった。

こんな自分の気持ちすら想像もしていなかった。

無邪気に一途な永遠の愛を信じていた自分が、彼を幸せにしたいと全部を捧げて彼を愛していた自分だったのが、疑り深くて、執念深くて、嫉妬深くて、我が儘で、自分の事しか考えない自分になった。

そんな心の中のどこかに、彼はカノジョより私を選んでいたという、惨めな優位の喜びをも感じてしまっている。割れた残骸からこんな惨めな愛の一カケラを拾わなければならないような立場にされる私を、彼が妻の私に味合わせた。本当は、一身に愛されればいいはずだったのに。

そうして愛する彼の不幸を心から望んでしまっている人になってしまった。

こんな姿、彼に見られたくない。
知られたくない。

でも、


 「思い知ればいい、」


と私は(つぶや)いていた。





カタン、

と玄関の郵便受けに離婚届と鍵を入れた。
市役所からとってきて記入したものだ。

その足で他県の実家に戻った。

実家はちょうど、偶然にも家を売り払ってマンション住まいに引っ越したところだったから、新住所を彼はまだ知らなかった。

両親はあきれながらも、とにかく家に泊めてくれた。
大学を卒業した時には一度ケジメをつけるようにと言われたのに、帰りもしなかった。就職を蹴って、彼と同棲してそのまま結婚してしまった、その時に自分の責任は自分にかかってくるんだよ、と言われたんだっけ。


「どうするの? 」


とまともな事を聞かれて、


「分かんない」


と答えた。
個人の銀行口座は携帯で管理していたから、幾らか親に払った後、携帯は捨ててしまった。

連絡が取れなくなってしまう⋯⋯ 。

私も分かってる。
幼稚だなって。
結局、実家に帰っただけだ。
人生の先を信じて、帰りもしなかった実家だった。
これで全て事務的な事が終われるのか、そんなことも分からないし、2度と会わずに別れられるのかも知らなかった。

彼のいない世界で、生きていけるのかも分からなかった。

あまりにも彼が全てだったから。

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