仮面夫婦のはずが、怜悧な外科医は政略妻への独占愛を容赦しない


 ことの発端は、遡ること半月前。まだ暑い日差しが照り付ける、九月のことだった。父である、北条明からの電話で始まった。

「え? 病院をたたむ!?」

 杏にしては珍しく大きな声が出た。

『あぁ、すまない杏。色々考えてそうすることに決めたよ』

 明の頼りない声を耳にし、杏は膝から崩れ落ちそうになった。

 杏の父は医師で、実家は病院経営をしている。大知の病院に比べたら、規模も資産も足元にも及ばないが、病院にはそれぞれ役割というものがあり、北条病院は地域の人々の身近で幅広い医療提供を行う、地域医療の中核的役割に特化した病院といえる。

 ここ最近、診療報酬のマイナス改定や不況のあおりを受け、経営状況はよくないとは聞いていた。だがたたむほどとは、想像もしていなかった。

 しかも明は、娘の杏も認めるほどのお人好し。無保険の患者や、訳ありの患者も無償で見ていた。そういったことも原因だろう。

 ましてや杏は今、臨床心理士になるべく、大学院に通っている。国立とはいえ、資金面でかなりの負担を強いていたいに違いない。

 もっと早く相談してほしかったと思う反面、自分はただの学生で、なんの力も持ち合わせていない。何もできない自分が歯がゆく、泣き出してしまいそうだった。

『すまんな、杏』
「ううん。事情はわかった。近々そっちに帰るから、そのときにゆっくり話そう?」

 それだけ告げると電話を終えた。



< 11 / 161 >

この作品をシェア

pagetop