Dear my girl
Dear my hero

三次元ベクトル 1


 谷口沙也子がふと目覚めた時、室内はまだ薄暗かった。

 窓の方に目をやると、カーテンの隙間から朧げな光が差し込んでいる。
 まだ陽が昇っていないからなのか、曇天だからなのかは分からない。
 寝ぼけ眼でぼんやり眺めていて――自分の部屋のカーテンではないことに気がついた。

(……そうだ。昨日は涼元くんの部屋で寝たんだった)

 身をよじろうとしたが、ほとんど動かせなかった。沙也子に絡みついている腕のせいだ。
 
 首の下には涼元一孝の腕が差し込まれていて、しっかりと抱きかかえられている。
 正直硬いし枕のような心地よさはないけれど、こうしているとあたたかい。
 とても、安心できる場所。

 少しずつ少しずつ体勢を変え、どうにか一孝に向きあった。

 沙也子は、気持ちよさそうに眠っている恋人を見つめた。
 規則正しい寝息を立てている彼の寝顔はあどけなく、いつもの精巧な顔つきは隠れてしまっている。こうして見ると、夜の彼とは別人に見える。

 切なげな表情。
 熱を帯びた甘い眼差し。
 優しく触れる指先も。少し強引な唇も。

 全部知っているのは沙也子だけだと思うと、気恥ずかしさと幸福感が入り混じったような、なんとも言えない気持ちがあふれてジタバタしたくなる。
 意味がないと分かっていても、沙也子は一孝の首元に顔をうずめて、真っ赤になった顔を隠した。


 この春、無事に大学に進学してから、2ヶ月近くが経った。
 受験地獄とはよく言ったもので、それはそれはもう大変だった。一孝が沙也子と同じ大学に行くと言ったからだ。

 沙也子に合わせるなんてよくないと、たくさん説得を試みたが、彼の意志は変わらなかった。
 絶対に後悔すると言っても、別の大学に行く方が絶対後悔すると言われてしまえば、沙也子が折れるしかなく。
 頼みの教師ですら東大合格の実績さえ作ってくれればいいというスタンスで、積極的に彼を説得しようとはしなかった。

 そうすると沙也子としては、半端なことなどできるわけがない。少しでもいい大学に行こうと、死に物狂いで一孝の徹底指導についていった。

 それでも頑張れたのは、実のところ一孝の気持ちが嬉しかったからだし、沙也子も彼と一緒の大学に行きたかったから。
 
 担任の松永などは「お互い高め合えていいカップルじゃないか」とのんきなことを言っていたが、どう考えても沙也子が一方的に高めてもらっただけである。

 大槻やよいにとっては滑り止めの大学で、森崎律や黒川蒼介にとっては本命のレベルだ。沙也子が合格できたのは奇跡に近い。
 大槻やよいは第一志望の国立に落ちてしまい、図らずもみんな同じ大学に通うこととなった。
 
 

 沙也子は高校を卒業したら、当然部屋を出るものと思っていた。
 しかし一孝や彼の父が、何言ってるんだとばかりに引き留めてくれ、結局は引き続きお世話になっている。

 大学の費用も、祖母が残してくれたお金を全て使うのは心もとなくて、奨学金制度を利用しようと思ったところ、一孝の父が学費を出してくれた。

 何から何までお世話になりっぱなしで心苦しく、すっかり恐縮している沙也子に、彼の父は「そのうち息子の出世払いで回収するからいい」と朗らかに笑った。

 沙也子はこの冗談を笑えなかった。
 働くようになったら必ず少しずつでも返すことを誓ったのだった。
< 116 / 164 >

この作品をシェア

pagetop