Dear my girl

2.


 谷口沙也子は、一孝の初恋の女の子だ。そして現在進行形で、何よりも誰よりも大切な人。


 母親が他に男を作って出て行ったのは、一孝が幼稚園のころだった。物覚えがよく、また記憶力にも優れていたため、今でもはっきりと鮮明に覚えている。
 父の誠司は母親が出て行ったことで、これまで以上に仕事に打ち込むようになり、一孝の世話は家政婦に一任していた。この世のすべてが信じられない気持ちだった。

 自分にできることが周囲の子供たちにはできない。それがいっそう孤独を煽ったし、どこか見下すようにもなっていた。そんなとき、沙也子に出会った。

 小学一年生は高学年の生徒と班になって登下校を共にしなければならない。それが鬱陶しくて、一孝は勝手に行動していたのだが、自分以外にもひとりでふらふらしている子供がいた。
 茶色のおかっぱ頭。同じクラスの谷口沙也子だった。不安げな様子できょろきょろしている。

 当たり前に無視して通り過ぎようとしたけれど、彼女が泣いていることに気づいてしまい、つい足を止めた。

「……おまえ、なにやってんの。上級生は?」

「い、いつのまにか、だれもいなくて。ここ、どこ?」

 一孝は決められた通学路ではなく、近道を使っている。沙也子は迷子になったようだった。一孝はため息をついた。

「なんか、住所かいてあるやつ、持ってる?」

「だ、だめだよ! ほんとうにこまったときにしか、だれにも見せちゃいけないって……ゆうかいとか、こわいことがおこる」

「今がその本当に困ったときじゃん」

 あほか、と思った。親の教えを守るのはけっこうなことだが、同じ小学生の一孝を警戒しても意味がないだろうに。なんとなく引くに引けない気持ちになり、一孝は手を差し出した。

「持ってるなら教えて。家までつれて行ってやる」

 沙也子は一孝をじっと見つめ、やがてじわりと涙ぐんだ。裏返しにつけている名前バッジをはずし、二重になっている紙を引っ張り出す。
 上の紙は名前で、下の紙に住所が書いてあるらしい。それをおずおずと差し出してくる。見てみれば、一孝の家の近所だ。なあんだ、と気が抜けた。

「こっち」

「わかるの?」

 瞳を輝かせてぱたぱたと足音を立ててついてくる沙也子に、一孝は呆れた顔をした。

「その角のむこうだよ。もうすぐそこ」

 連れて行ってやれば、沙也子の住所のアパートの入口で、女性がうろうろしていた。あっとこちらに気づき、駆け寄ってくる。

「沙也子! よかった、みんなと一緒に帰ってないから、心配するじゃない!」

「ごめんなさい……。だって、みんないなくなったの……」

「そんなこと言って。また迷子になったんでしょう。班長さんから目を離しちゃだめって言ったでしょ……って、きみが連れてきてくれたの?」

 沙也子の母親だろう。安心して、ようやく一孝に気づいたようだ。答えるよりも早く、沙也子が一孝の手を握った。

「たすけてくれたの! 同じクラスの、ええと……」

「……涼元です」

 どことなく居心地の悪さを感じながら、一応ぺこりと頭を下げる。沙也子の母はしゃがんで、一孝と目を合わせた。

「涼元くん、どうもありがとうね。よかったら、上がっておやつでも食べて行って!」

「いえ、いいです」

 びっくりして、一孝はかぶりを振った。すると沙也子は、不満げに一孝の手をぶんぶん揺らした。

「ええ~、いっしょに食べようよ! お母さんのおやつ、すごくおいしいよ!」

「あ、涼元くんのお母さんが、心配しちゃうかな? 連絡しようか?」

「母は……いません」

 知らない男と去って行く母親の姿が蘇る。胸の奥から苦いものがこみ上げてくる。
 沙也子の手を振りほどこうとすると、ますますぎゅっと握られた。

「うちとおなじだー! わたしはお父さんがいないの。おそろいだね」

「はあ?」

 なにがおそろいだと呆気にとられたが、沙也子が母親に「こらっ」と小突かれたのを見て、思わず小さく噴き出してしまった。一孝につられて、沙也子も笑った。

「ね、いこう」

 引かれる手に、一孝は逆らわなかった。

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