秘夜に愛を刻んだエリート御曹司はママとベビーを手放さない
「立派なおうちはやはり大変なんだなと……それから、時々むなしくなります」
 志弦の声が優しいから……ついつい弱音をこぼしてしまった。
「むなしい?」
「私はなんのためにここにいるのかなって。昴さんは、この縁談を望んでいないんですよね」
 言葉にしたら、張りつめていた糸が切れたように涙があふれそうになる。急いで上を向いて、それをこらえた。

 隣の志弦が言葉をのみ込むのを気配で感じた。
「私がここにいることで、志弦さんにも不快な思いをさせますし……」
 落ち込む気持ちを払うように、無理して明るい声を出して続ける。
「あ、そうだ。私、休館日の月曜日以外だと水曜日がお休みのことが多いんです。だから、もしよかったら水曜日にまた尾野美術館にいらしてくださいね」
 以前は毎週のように来ていた志弦が、あの一夜以降はぱたりと姿を見せなくなった。初めは自分と顔を合わせていないだけかと思っていたが、ほかのスタッフの間でも『王子さまが来なくなった』と話題になりはじめている。

 志弦は力強い手で清香の肩をつかみ、自分のほうへ向けさせた。
「清香」
 凜とした声。
(名前、初めて呼ばれた)
 彼の声で発せられると、自分の名前はとても特別なもののように響く。ときめいてはいけない相手だと、嫌というほど理解しているのに……胸の高鳴りは大きくなるばかりだ。
 この瞳に見つめられると、身じろぎもできない。
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