真夏の情事は、儚い夢のようで
「会いたい」
既読にはすぐになった。
「今どこ?」
「駅前のファミレス。高校の時、よく行ってたとこ」
それから、既読になったまま返事はなかった。
深夜1時47分。
寝ちゃったか…。
窓際のテーブル席に座って、頼んでおいたブラックのホットコーヒーを一口だけ口に含んだ。
苦くて温かい液体が喉元を通り過ぎると、少しだけ現実に引き戻されて、冷静になれる気がする。
頬杖をついて暗い深夜の窓の外を眺めた。
人通りの多い駅ではないが、こんな時間でもちらほら人が歩いている。
この中に私と同じくらい結婚に絶望している人間が何人いるだろう?
考えても仕方のないことが頭に浮かんでは消える。
こんな真夜中に不倫相手に会いたいだなんて、馬鹿げた連絡をしたもんだと我ながら後悔していた。
ただでさえ、バレたらろくなことにならない関係を結んでおいて、のこのことやって来る男がいるはずもない。
そんな男なら初めから不倫なんか持ち掛けてこないのに。
私はまた暗い窓の外を見つめた。
ああ、どうやってこの不倫は始まってしまったんだっけ?
私はそっと瞳を閉じた。
「なら、俺が相手してやろうか?」
新婚なのに、夫と夜の営みがないと打ち明けたときの大地の台詞だ。
アルコールが入っているとは言え、冗談でも笑えなかった。
居酒屋のカウンターに、横並びで座っていた大地が悪戯っぽい笑みをこちらに寄越した。
「大地に相手してもらうぐらいなら、いっそこのまま出家した方がマシ」
ツンと澄まして、カシスオレンジのグラスを口に運んだ。
「そう?俺、結構イイ仕事すると思うよ?」
そう言って、甘い笑顔で顔を覗かれてしまっては、それに惹き込まれないわけにはいかない。
酒の力には抗えない。
捨てたはずのかつて確かに感じていた好きな気持ちが、アルコールの巡りとともにいとも簡単に蘇ってくる。
ホテルのルームキーが床に無造作に投げ捨てられると同時に、私は背伸びをして大地の首に腕を回していた。
大地の渇いた唇が、少し強引に私の唇を奪う。
久しぶりのキスは甘く滑らかで、ふんわりとお酒の匂いがした。
「後悔しない?」
身体を火照らせ、余裕を失くした私に、勝ち誇ったように大地が囁く。
「しない」
即答した私に、大地はまた悪戯に笑みを溢すと、ぐいと私の身体を引き寄せ、ベッドへと横たえた。
久しぶりの快楽だったからか、不倫だからなのか、初恋の相手だからなのか。
あんなにも激しく、淫らに乱れた夜はない。
次から次に求めて止まない、お互いを貪り合うような感覚。
あんなに自分の喘ぎ声さえ心地良いと感じたことはこれまでになかった。
私は不倫なんかできないと思っていたのに。
きっかけさえあれば、誰でも墜ちてしまえるのかもしれない。
「そろそろ行こうか。遅くなるとマズいだろ?」
左腕にはめた腕時計の針を見ながら、大地がスーツのジャケットを羽織った。
その一度きりのはずだった。
男なんてそんなものだし、場の雰囲気さえうまく流れれば女を抱ける。
大地もきっと例に漏れない。
相手が私でなくても、きっと構わない。
このまま明日からもまた、何事もなかったかのように、私たちの時間は過ぎていく。
幼馴染として、たった一度の過ちを胸に秘めたまま。
そのはずだったのに、それをあっさりと打ち壊したのは大地の方だった。
しばらくして、お互いに何食わぬ顔をしたまま、いつものようにホテルのラウンジで飲んだ。
「部屋取ってる」
会計を済ませたところで静かにまた、甘い笑みを称えてそうとだけ告げられると、無意識に喜んでいる自分がいた。
その笑みに絆され、あれからズルズルと幾度も身体を重ねてきた。
うまくいかない結婚生活を壊して欲しいのか。
はたまた壊したいのか。
夫との信頼関係が揺らいでる今、自分が求めているものが分からない。
私は一体大地の何が欲しいんだろう…―?
目を開くと、ドサッと向かいの席に人影が腰をおろした。
「暑っつ…!夜中なのにこの暑さやばいな…」
ソファー席にどっしりと深く腰かけながら、背もたれに項垂れているのは大地だった。
着ていたTシャツの首元を掴んでパタパタと扇いでいる。
「で、どうした?何かあった?」
軽く息を切らしながら、大地がこちらを見つめた。
「え、いや、何かお腹空いちゃって…」
「そんなわけあるか、こんな時間に」
正論で突っ込む大地に、ふふと力ない笑いが出てしまった。
「いや、来ると思わなかった」
「呼んでおいて、なんだそれは」
「ごめん、ありがとう」
「お前に会いたいって言われて、行かないわけにいかないだろ」
そう言いながら、大地がすみませんと店員を呼び止めて、コーラを頼んだ。
その言葉に思わず胸が騒いだのは、かつての惚れた弱みだろうか。
「旦那とケンカでもした?」
その問いに何も答えずにいると大地が続ける。
「話したくないならいいけどさ。その様子ならバレたってわけでもなさそうだし」
運ばれてきたばかりのコーラのグラスを口に運びながら、大地が何食わぬ様子で冷静に言った。
「バレたんじゃない。夫婦でちょっとこれからのことで考えが違っただけ」
グラスの半分ほどコーラを飲んでから、グラスをテーブルに置いた。
「それでこんな時間に家を飛び出したわけ?」
「あまりに違い過ぎてショックで…」
それ以上話す言葉を失って、目の前の冷めかけたコーヒーの水面に目線を落とした。
「結婚なんてさ、少なからずそんなもんじゃねえの?そういうケンカを繰り返して少しずつ歩み寄って理解を深めて同じ未来を見て一緒に生活していく」
大地が話す結婚観が私の求める理想と同じで、心の奥底でホッとした自分がいた。
「私もそう思ってた。でも向こうは違ったみたい」
「それで不倫相手呼び出してちゃダメだろ」
大地が思わず吹き出した。
「あはは…そうだよね!何してんだって感じだよね!」
「そんで、来てしまう俺も俺だけどな」
「大地は昔から私には甘いから」
ふふと笑ってしまう。
「よく分かってんじゃん!しかし自分で言うかね。そしてそれを分かってて呼びつけるんだから困るよ、ホント」
「困るならなんで来ちゃうのよ」
笑いながら言った私の言葉に、大地の表情が一瞬静止した。
「…何でだろうな?」
そう小さく鼻で笑いながら呟いて、大地が急に目線を逸らしたのが、どうにも腑に落ちなかったが、これ以上聞いてもはぐらかされる気がして、もうそこには触れなかった。
「大地と結婚してればよかったのかな?」
「俺はごめんだね」
「何でよ!」
「浮気するから、お前」
「その浮気相手がよく言えるね。そもそも大地が妻の私を大事にしてくれたら、浮気なんてしないんだよ」
「お前、今大事にされてねえの?」
「そうかもしれない…」
そう答えるので精一杯だった。
「俺なら大事にしてやる!なんて言えればいいんだろうが、俺もそんな大層なこと言えた立場じゃないしな。女には愛想つかされてばかりだし」
「やっぱりこないだの子にはフラれたんだ!」
さっきのように私はふざけて勝ち誇ったような笑みを浮かべながら言ったが、大地はなぜか笑わなかった。
「そう。フラれたんだよ。俺は何考えてるか分からないんだと」
「え!こんなに分かりやすいのに?!」
「バカ!お前が一番分かってねぇから!」
大地が思わず笑って突っ込んだ。
「何でよ!」
「ホントに何にも分かってねぇから、俺のこと!」
「私が分からないんなら、きっと誰も分からないよ。大地のことなんか」
「そうかもな。あいつもそうだったのかもしれないしな」
コーラに浸かった氷が溶けて、カランと鳴った。
大地は独身だ。
バツイチでもない。
先に婚約をしたのは確かに大地だったが、式直前で婚約破棄になったのだ。
それも彼女の浮気が原因での婚約破棄。
「浮気なんてする奴は最低だ」
その頃の大地は口を開けばそればかりだった。
あんなに辛そうな大地を見たのは後にも先にもあの時だけだ。
私はもう自分の目先の結婚に幸せを見出だしていて、大地が結婚しなくても私の気持ちが揺れることはなかった。
「今の私、大地の元婚約者と同じことしてるんだよね」
「………」
大地は黙ったまま、手にしていたグラスを口に運んで、残っていたコーラを一気に飲み干した。
「なあ、しねぇの?離婚」
「…分からない」
俯いてぽつりとそれだけ答えた。
「もう、こういうのやめねぇ?」
「え…?」
思わず顔を上げて大地を見つめた。
「離婚する気がないなら、ちゃんと旦那に抱いてもらえよ」
大地が困ったような笑みを浮かべる意味を、私には推し量ることができなかった。
「それができるならとっくにやってる!」
「でも離婚しないんなら、夫婦で向き合って話し合わなきゃ何も変わらないだろ?俺もいつまでもこんな関係続けられるわけじゃないしさ。いつかどこかで踏ん切りはつけなきゃいけないだろ」
いつまでもズルズルと続けられるわけではないと分かっていたけど、今日今この瞬間にだけは言って欲しくなかった。
「そんな綺麗事で終わらせるなんてズルいよ。この関係を始めたのは大地だよ」
そう言って完全に冷めてしまったコーヒーを飲み干した。
「そうだな。旦那との関係で悩んでることにつけこんで、憂さ晴らしのようにお前をこういう関係に引きずり込んでしまったのは俺なのにな」
違う。
大地を責めるのは間違っている。
不倫にどちらが始めたかなんて関係ない。
確かにきっかけは大地の言葉だったのかもしれない。
それでも、その手を取ってのめり込んだのは私だ。
嫌なら断れたはずだし、連絡を絶つことだってできたはずなのに、そうしなかったのはやはり、私もこの関係を望んでいたからに違いない。
旦那との夜の営みがないことを大地に愚痴ったのだって、きっとどこかで何かを期待していたからだ。
夫が私に触れてくれない、それだけで私には大地との関係を続ける意味がある。
でも大地にとっては、違う。
既婚者と関係をもつことは、大地にとってはリスクでしかない。
それでもやめられないことに一番思い悩んでいるのは、大地の方かもしれない。
既読にはすぐになった。
「今どこ?」
「駅前のファミレス。高校の時、よく行ってたとこ」
それから、既読になったまま返事はなかった。
深夜1時47分。
寝ちゃったか…。
窓際のテーブル席に座って、頼んでおいたブラックのホットコーヒーを一口だけ口に含んだ。
苦くて温かい液体が喉元を通り過ぎると、少しだけ現実に引き戻されて、冷静になれる気がする。
頬杖をついて暗い深夜の窓の外を眺めた。
人通りの多い駅ではないが、こんな時間でもちらほら人が歩いている。
この中に私と同じくらい結婚に絶望している人間が何人いるだろう?
考えても仕方のないことが頭に浮かんでは消える。
こんな真夜中に不倫相手に会いたいだなんて、馬鹿げた連絡をしたもんだと我ながら後悔していた。
ただでさえ、バレたらろくなことにならない関係を結んでおいて、のこのことやって来る男がいるはずもない。
そんな男なら初めから不倫なんか持ち掛けてこないのに。
私はまた暗い窓の外を見つめた。
ああ、どうやってこの不倫は始まってしまったんだっけ?
私はそっと瞳を閉じた。
「なら、俺が相手してやろうか?」
新婚なのに、夫と夜の営みがないと打ち明けたときの大地の台詞だ。
アルコールが入っているとは言え、冗談でも笑えなかった。
居酒屋のカウンターに、横並びで座っていた大地が悪戯っぽい笑みをこちらに寄越した。
「大地に相手してもらうぐらいなら、いっそこのまま出家した方がマシ」
ツンと澄まして、カシスオレンジのグラスを口に運んだ。
「そう?俺、結構イイ仕事すると思うよ?」
そう言って、甘い笑顔で顔を覗かれてしまっては、それに惹き込まれないわけにはいかない。
酒の力には抗えない。
捨てたはずのかつて確かに感じていた好きな気持ちが、アルコールの巡りとともにいとも簡単に蘇ってくる。
ホテルのルームキーが床に無造作に投げ捨てられると同時に、私は背伸びをして大地の首に腕を回していた。
大地の渇いた唇が、少し強引に私の唇を奪う。
久しぶりのキスは甘く滑らかで、ふんわりとお酒の匂いがした。
「後悔しない?」
身体を火照らせ、余裕を失くした私に、勝ち誇ったように大地が囁く。
「しない」
即答した私に、大地はまた悪戯に笑みを溢すと、ぐいと私の身体を引き寄せ、ベッドへと横たえた。
久しぶりの快楽だったからか、不倫だからなのか、初恋の相手だからなのか。
あんなにも激しく、淫らに乱れた夜はない。
次から次に求めて止まない、お互いを貪り合うような感覚。
あんなに自分の喘ぎ声さえ心地良いと感じたことはこれまでになかった。
私は不倫なんかできないと思っていたのに。
きっかけさえあれば、誰でも墜ちてしまえるのかもしれない。
「そろそろ行こうか。遅くなるとマズいだろ?」
左腕にはめた腕時計の針を見ながら、大地がスーツのジャケットを羽織った。
その一度きりのはずだった。
男なんてそんなものだし、場の雰囲気さえうまく流れれば女を抱ける。
大地もきっと例に漏れない。
相手が私でなくても、きっと構わない。
このまま明日からもまた、何事もなかったかのように、私たちの時間は過ぎていく。
幼馴染として、たった一度の過ちを胸に秘めたまま。
そのはずだったのに、それをあっさりと打ち壊したのは大地の方だった。
しばらくして、お互いに何食わぬ顔をしたまま、いつものようにホテルのラウンジで飲んだ。
「部屋取ってる」
会計を済ませたところで静かにまた、甘い笑みを称えてそうとだけ告げられると、無意識に喜んでいる自分がいた。
その笑みに絆され、あれからズルズルと幾度も身体を重ねてきた。
うまくいかない結婚生活を壊して欲しいのか。
はたまた壊したいのか。
夫との信頼関係が揺らいでる今、自分が求めているものが分からない。
私は一体大地の何が欲しいんだろう…―?
目を開くと、ドサッと向かいの席に人影が腰をおろした。
「暑っつ…!夜中なのにこの暑さやばいな…」
ソファー席にどっしりと深く腰かけながら、背もたれに項垂れているのは大地だった。
着ていたTシャツの首元を掴んでパタパタと扇いでいる。
「で、どうした?何かあった?」
軽く息を切らしながら、大地がこちらを見つめた。
「え、いや、何かお腹空いちゃって…」
「そんなわけあるか、こんな時間に」
正論で突っ込む大地に、ふふと力ない笑いが出てしまった。
「いや、来ると思わなかった」
「呼んでおいて、なんだそれは」
「ごめん、ありがとう」
「お前に会いたいって言われて、行かないわけにいかないだろ」
そう言いながら、大地がすみませんと店員を呼び止めて、コーラを頼んだ。
その言葉に思わず胸が騒いだのは、かつての惚れた弱みだろうか。
「旦那とケンカでもした?」
その問いに何も答えずにいると大地が続ける。
「話したくないならいいけどさ。その様子ならバレたってわけでもなさそうだし」
運ばれてきたばかりのコーラのグラスを口に運びながら、大地が何食わぬ様子で冷静に言った。
「バレたんじゃない。夫婦でちょっとこれからのことで考えが違っただけ」
グラスの半分ほどコーラを飲んでから、グラスをテーブルに置いた。
「それでこんな時間に家を飛び出したわけ?」
「あまりに違い過ぎてショックで…」
それ以上話す言葉を失って、目の前の冷めかけたコーヒーの水面に目線を落とした。
「結婚なんてさ、少なからずそんなもんじゃねえの?そういうケンカを繰り返して少しずつ歩み寄って理解を深めて同じ未来を見て一緒に生活していく」
大地が話す結婚観が私の求める理想と同じで、心の奥底でホッとした自分がいた。
「私もそう思ってた。でも向こうは違ったみたい」
「それで不倫相手呼び出してちゃダメだろ」
大地が思わず吹き出した。
「あはは…そうだよね!何してんだって感じだよね!」
「そんで、来てしまう俺も俺だけどな」
「大地は昔から私には甘いから」
ふふと笑ってしまう。
「よく分かってんじゃん!しかし自分で言うかね。そしてそれを分かってて呼びつけるんだから困るよ、ホント」
「困るならなんで来ちゃうのよ」
笑いながら言った私の言葉に、大地の表情が一瞬静止した。
「…何でだろうな?」
そう小さく鼻で笑いながら呟いて、大地が急に目線を逸らしたのが、どうにも腑に落ちなかったが、これ以上聞いてもはぐらかされる気がして、もうそこには触れなかった。
「大地と結婚してればよかったのかな?」
「俺はごめんだね」
「何でよ!」
「浮気するから、お前」
「その浮気相手がよく言えるね。そもそも大地が妻の私を大事にしてくれたら、浮気なんてしないんだよ」
「お前、今大事にされてねえの?」
「そうかもしれない…」
そう答えるので精一杯だった。
「俺なら大事にしてやる!なんて言えればいいんだろうが、俺もそんな大層なこと言えた立場じゃないしな。女には愛想つかされてばかりだし」
「やっぱりこないだの子にはフラれたんだ!」
さっきのように私はふざけて勝ち誇ったような笑みを浮かべながら言ったが、大地はなぜか笑わなかった。
「そう。フラれたんだよ。俺は何考えてるか分からないんだと」
「え!こんなに分かりやすいのに?!」
「バカ!お前が一番分かってねぇから!」
大地が思わず笑って突っ込んだ。
「何でよ!」
「ホントに何にも分かってねぇから、俺のこと!」
「私が分からないんなら、きっと誰も分からないよ。大地のことなんか」
「そうかもな。あいつもそうだったのかもしれないしな」
コーラに浸かった氷が溶けて、カランと鳴った。
大地は独身だ。
バツイチでもない。
先に婚約をしたのは確かに大地だったが、式直前で婚約破棄になったのだ。
それも彼女の浮気が原因での婚約破棄。
「浮気なんてする奴は最低だ」
その頃の大地は口を開けばそればかりだった。
あんなに辛そうな大地を見たのは後にも先にもあの時だけだ。
私はもう自分の目先の結婚に幸せを見出だしていて、大地が結婚しなくても私の気持ちが揺れることはなかった。
「今の私、大地の元婚約者と同じことしてるんだよね」
「………」
大地は黙ったまま、手にしていたグラスを口に運んで、残っていたコーラを一気に飲み干した。
「なあ、しねぇの?離婚」
「…分からない」
俯いてぽつりとそれだけ答えた。
「もう、こういうのやめねぇ?」
「え…?」
思わず顔を上げて大地を見つめた。
「離婚する気がないなら、ちゃんと旦那に抱いてもらえよ」
大地が困ったような笑みを浮かべる意味を、私には推し量ることができなかった。
「それができるならとっくにやってる!」
「でも離婚しないんなら、夫婦で向き合って話し合わなきゃ何も変わらないだろ?俺もいつまでもこんな関係続けられるわけじゃないしさ。いつかどこかで踏ん切りはつけなきゃいけないだろ」
いつまでもズルズルと続けられるわけではないと分かっていたけど、今日今この瞬間にだけは言って欲しくなかった。
「そんな綺麗事で終わらせるなんてズルいよ。この関係を始めたのは大地だよ」
そう言って完全に冷めてしまったコーヒーを飲み干した。
「そうだな。旦那との関係で悩んでることにつけこんで、憂さ晴らしのようにお前をこういう関係に引きずり込んでしまったのは俺なのにな」
違う。
大地を責めるのは間違っている。
不倫にどちらが始めたかなんて関係ない。
確かにきっかけは大地の言葉だったのかもしれない。
それでも、その手を取ってのめり込んだのは私だ。
嫌なら断れたはずだし、連絡を絶つことだってできたはずなのに、そうしなかったのはやはり、私もこの関係を望んでいたからに違いない。
旦那との夜の営みがないことを大地に愚痴ったのだって、きっとどこかで何かを期待していたからだ。
夫が私に触れてくれない、それだけで私には大地との関係を続ける意味がある。
でも大地にとっては、違う。
既婚者と関係をもつことは、大地にとってはリスクでしかない。
それでもやめられないことに一番思い悩んでいるのは、大地の方かもしれない。