それでも愛がたりなくて
 自宅に戻り、静かな部屋で二人並んでソファーに腰かけた。
 賢治の顔を見ることができず、俯いた塔子の視線はワイドパンツの太腿辺りにできた皺を何度も辿っていた。

「塔子」

 賢治に呼ばれ、顔を上げた。

「俺だけ見ててほしい」

「え?」

「どこにも行かないでほしい」
 
 塔子の見開いた目に、一気に涙が溢れた。それは、賢治の口から初めて聞く言葉だった。
 それから賢治は、ぽつりぽつりと話し始めた。

「俺、口下手だから伝えるの苦手で……」

「……わかってる」

「あと、照れもあって」

「うん」

「ずっと一緒にいるんだから、そういうことに決まってるだろって……」

「わかってるよ」

「でも、塔子が望むことは全て叶えてやりたいと思ってたんだ」

 塔子は黙ったまま賢治の横顔を見つめた。

「お前が仕事で息詰まって辞めたいって言った時、辞めていつまででも家でゆっくり休めばいいって言ったし、資格をとってやってみたい仕事ができたって言った時は、チャレンジしてみればいいとも言った」

 塔子は頷きながら聞いていた。

「お前が友達と一週間の旅行に行ってくるって言った時、楽しんでこいよって送り出したけど、本当はめちゃくちゃ不安でさ。実は男と行ったんじゃないかって思ったり」

「え? 景子とのバリ旅行の時だよね」

「そうだ。あの時、お前が毎日いっぱい写メ送ってくれたから、すごくほっとしたんだ」
 
 賢治がそんな風に思っていた事を、塔子は初めて知った。

「結婚した時に、エゴを押し付けてお前の視野を狭めるような事だけは避けようと思って、なるべく我を出さないように気をつけてきたんだ。俺みたいな奴と一緒になってくれたんだからって」
 
 賢治ははにかんで俯いた。

 パズルのピースがぴったりとはまるように、塔子の頭の中で今までの出来事が全て繋がった。
 賢治は決して無関心なわけではなかったのだ。意図して、干渉も束縛もしなかったということだ。

「だけどひとつだけ、叶えてやれそうにない問題ができて、すごく悩んだ」

「え、何?」

「子供のことだよ」

 賢治の表情が悲しげに曇る。

「そのことは前にちゃんと話し合って、お互い納得したよね」

「うん、そうだけど……。お前は俺が検査を受ける前から、結果がどうであっても構わないって言ってくれたけど、俺は何年もずっとお前に隠してきた。それがずっとひっかかってて」

「私は本当に、それでもいいって思ったんだよ」

「それは今だから言えるんだよ。十年後二十年後、お前に後悔させたくないって思ったんだ。それで俺……離婚考えてたんだ」

「え……」
 
 言葉が続かなかった。

「でもなかなか言い出せなくて」

 それは、あの日塔子の頭をよぎった“離婚”とは、全く意味合いの違うものだった。

「別れないといけないと思ったら、一緒にいるのが辛くてさ。それで毎晩一人で海に行ってたんだ。ひたすら投げて巻いてを繰り返す釣りが、無心になれたっていうか、何にも考えないでいれたから。でも帰ってお前の寝顔見たら、あともう少しだけ一緒にいたいって……」

 突然黙り込んだ賢治に目を遣ると、唇を噛み締め静かに涙を流していた。

 塔子は胸が張り裂けるような思いに駆られた。
 自分は今まで賢治の何処を見て、賢治の為に何をしてあげれていたのだろう。
 自分は、離婚を言い渡されて当然の事をした人間なのに――。

「賢治がそんなにも苦しんでた事に気付けなかった自分が情けない。賢治が海でひとり悩んでる間も、私はいつもただ寂しいとしか思えなかった。残業が続くことに不信感を持って、賢治の浮気まで疑って、挙げ句の果てには――」

「塔子! いいんだ。お前は何も悪くない」

 賢治は塔子の言葉を遮った。

「お前を冷たく突き放したのは俺だ。辛い思いさせて悪かった。嫌われたほうが楽になれると思ってそう仕向けたんだ。でも、お前の気持ちが離れていくのを感じたらやっぱり耐えられなくて、またお前を抱いて……」


 塔子は感じ取っていた。日に日に言葉や態度が冷たくなっていく賢治だったが、身体を重ねると、今までと変わらない愛情が伝わってくることを。それは塔子にしかわからない感覚だが、確かにそう感じていたのだ。それが余計に塔子を困惑させ、期待させ、不安にさせていたのだった。

「賢治の気持ちも、シャイな性格なのもわかってたよ。わかってるつもりだったけど、それでも不安になる時があったの。付き合ってた時からずっと……本当はちゃんと言葉で伝えて欲しかった。時々でいいから」

「――もう遅いか? お前の気持ちは、もう俺じゃないところにあるのか?」

 賢治は頬を濡らしたまま、縋るような表情で塔子を見つめていた。
 塔子が首を横に振ると、賢治は深い溜め息を吐いた。

「俺は、お前と同じもの食べて、旨いなって言い合って毎日過ごせるだけで幸せだった。お前がそばにいてくれるだけで――」

 塔子は腰を上げソファーに膝をつくと、覆い被さるようにして賢治を抱きしめた。

「塔子、好きだよ。出会った時からずっと」

 賢治が耳元で囁いた。


 塔子がゆっくりと身体を離し視線を合わせると、賢治は耳まで真っ赤に染めていた。
 塔子はその表情が堪らなく愛おしく思えた。





 【完】
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