うましか

 息が、止まるかと思った。

 横断歩道を渡って来た男性が、見知った人だったからだ。見知った、と言っても、わたしが知る容姿とは少し違っている。表情が昔よりずっと大人っぽくなった。

「こ、ばやしくん……」
 名前を呼ぶと男性は顔を上げ、わたしを見、そして首を傾げる。
「……どちらさまですか?」

 まあそうだろうなと予想はついていた。彼の記憶に残るほどの接点はなかったから、忘れられてもなんら不思議ではない。でも実際はっきり言われるとショックだったりする。

 坂を上ってきた疲労も相まって言葉が見つからない。頬を伝う汗もそのままに硬直していると、小林くんはその切れ長の目を細めてふっと笑った。

「うそうそ。おぼえてるよ、笹井さん」
 そう言われても、やはり言葉が見つからなかった。嬉しい。おぼえていてくれた。数えるほどしか会話をしたことがないわたしを、ちゃんと。

 小林くんはわたしの隣に立って、腕時計に目をやる。背が高い。百八十センチ近くあるだろうか。あの頃からこんなに背が高かっただろうか、と思い出そうとしたけれど、わたしは彼の隣に並んで立ったことなどないことを思い出した。

「試合?」
「うん、そう、甲子園」
「もうとっくに始まってるよ」
「小林くんこそ」
「寝坊して」
「わたしもだよ」
「笹井さんが遅刻するイメージないけど」
「ゆうべ遅くて」
「デート?」
「まさか。仕事」
 まさか。学生時代大した会話もしたことがない小林くんと、こんなに自然に会話ができるなんて。それが何より驚いた。それだけ大人になったということだろうか。

「汗すごいよ、大丈夫?」
「ん、駅から歩いて来たから」
「電車で来たの?」
「車。駅の裏の駐車場に停めろって連絡があって」
「そうなの? すぐそこの市民体育館に臨時駐車場って貼り紙があったから、そこに停めちゃったけど」
「え、そうなの?」

 なんてことだ。じゃあ炎天下、ぜえはあ言いながら坂を上った時間は無駄だったということか。大きなため息をつくと、彼は肩を揺らしてくつくつ笑い、手の甲でわたしの額の汗を拭ってくれた。その流れるような行為に驚いて顔を上げる。こんなこと、余程親しい関係でなければできないだろうに。彼は何事もなかったかのような表情で「行こうか」と促した。
 なんてことだ。八年ぶりに再会した同級生が、随分と経験豊富な大人になってしまったようだ。


< 3 / 56 >

この作品をシェア

pagetop