あなたが好き
 彩花はその日一日、倉庫整理の疲れと、美咲がどうして自分にだけ冷たいのかを悟ったことによる気疲れで仕事に身が入らなかった。
 幸い急な仕事もなかったので、定時で早々に部署のある部屋を後にした。
 
 彩花の足は真っすぐ、昼間整理をした倉庫に向かった。
 彩花は月子から倉庫のスペアキーの場所を聞いていて、自由に使えるようになっている。
 彩花は倉庫に入って、奥のロッカーを開けた。
 ロッカーの中には「屋上(スペア)」と書かれたカギが入っている。
 彩花はその「屋上(スペア)」と書かれたカギを手に取ると、倉庫を出た。
 
 彩花は時々、仕事やプライベートでいやなことがあると、このスペアキーで屋上へ行き、空を見上げたり街の景色を上から見下ろしたりして、気を晴らしていた。
 屋上への出入りは基本禁止だったから、もちろん誰にも内緒だ。
 
 最近は屋上の風景をスマホのカメラで撮ることもある。屋上からの眺めはなかなか良いものだ。でも、立ち入り禁止の場所だから、誰かに見せることもなく完全な自己満足だった。
 彩花は写真を撮るのが好きだが、撮ったからと言ってSNSにアップしたり人に見せたりなどはあまりしない。
 目立ちたくない性格から、写真を撮っていることを人に悟られるのもイヤなので、撮影する時にシャッター音のしないアプリをインストールして使用している程だった。
 
 
 
 階段を登って屋上への扉を開けると、空は夕陽で赤く染まりかけていた。
 彩花は錆《さび》びれたフェンスに肘をついて、スマホで夕日を撮影しながらぼんやりとしていた。
 
 しばらくすると、ふと誰かの足音が聞こえてきたので慌てて階段室の後ろに隠れた。
 さすがに屋上には来ないだろうと思ったいたら、何やらカギを開ける音がする。
 彩花は念のため屋上のカギを外側から掛けておいてよかったと思った。
 
「相変わらず、良い眺めね」
 階段室の後ろにいる彩花には見えないが、入ってきたのはどうやら上司の月子のようだ。
 月子は部長だから、屋上のスペアでないカギが自由に使えるのだろう。
「そうですね」
 この声は森川の声だ。
 
 どうして月子と森川が屋上に? と彩花は思った。二人で内緒で仕事の相談でもするのだろうか。
「結婚式の準備、大変?」
 再び月子の声が聞こえた。
「大変ですけど、ほとんど美咲がやってます」
「そう。2ヶ月するとあなたも他の女の旦那ね、悲しいわ」
「そんなこと言わないでください。二人で決めたじゃないですか。俺は美咲と結婚して、月子さんは旦那さんと一緒にいるって。一番好きだけど、一緒にはならないって」

 彩花は自分の胸の鼓動が激しくなるのを感じた。
 
「確かに決めたけど、やっぱりあなたが他の女の子と結婚してしまうのはいやなの。私、旦那も仕事も何もかも捨ててもいいから……」
「月子さん……」
「やっぱり、あなたが好き。一緒にいたいの」
 
 彩花は我慢できなくなり、身を潜めている階段室の影から森川と月子がいるであろう方向を覗き込み、二人の影が重ねっているのを見て息を飲んだ。
 彩花は思わず、手元に持っていたスマホを強く握りしめた。
 
 
 
 月子と森川が屋上から出て行くまで、彩花は階段室の物陰でじっとしていた。
 彩花には永遠に時間が続くようにも思われたが、数分経つと二人は名残惜しそうに屋上を後にした。
 
 月子と森川が屋上を去った後も、彩花はしばらくその場から動けなかった。
 まるで金縛りにあったように身体が動かない。思考も停止している。
 身体と思考が動くようになった頃には、辺りはすっかり暗くなりかけていた。
 そして、彩花はやっと、さっきの出来事を思い出し始めた。
 
 確か、屋上に森川と月子が来て話して行った。
 いつも森川は月子を「柳田部長」と言っているのに、さっきは「月子さん」と言っていた。
 月子は森川に「あなたが他の女の子と結婚してしまうのはいやなの」と言って「旦那も仕事も何もかも捨ててもいいから」と言っていた。
 そして、「あなたが好き」と。
 
 月子は森川が好きで、森川も月子が好きだったんだ。
(――どうして?)
 彩花は心の中で呟いた。
 
 どうして、月子と森川は不倫しているんだろう? 
 どうして、森川は既婚者の月子が好きなんだろう? 
 どうして、月子は美咲と結婚するはずの森川が好きなんだろう? 
 どうして、月子は同じ森川が好きな自分に優しくするんだろう? 美咲はあんなに冷たいのに。
 
 彩花は森川と美咲が結婚することを聞いた時くらい、ショックを受けていた。
 でも、自分が憧れて尊敬している上司二人が不倫していた事実を知ったのに、「哀しい」というよりも、別の感情が自分の胸に湧いていることに気付いた。
 
 こんなにショックを受けたのに、「哀しい」よりも「裏切られた」と感じている気持ちの方が強い。
 自分はあの二人に怒りを感じているようだった。
 
 森川は美咲と結婚するはずなのに、月子が一番好きそうなことを言っていた。
 森川は美咲を裏切っていることになるのではないだろうか? 
 月子だって、旦那を裏切って森川に「あなたが好き」なんて言っている。
 彩花には「別の人を探した方がいい」なんて言っていたのに。
 
 
 
 辺りがすっかり暗くなった頃、彩花はやっと屋上を後にした。
 ふと手元のスマホを見ると、まだ写真の撮影モードになっている。
 モードを終了しようとすると、撮影した記憶のない写真が写っていることに気付いた。
 
 彩花はその写真を見て息を飲んだ。
 夕日をバックに抱き合っている男女の写真が何枚も写っている。忘れもしない、さっき見た森川と月子の姿だった。
 驚いて思わずスマホを握りしめた時に、撮影ボタンを押してしまったのだろう、連写モードにしていたらしく何枚も写っている。
 知っている人であれば、写っているのが森川と月子だとすぐにわかる写真だ。
 彩花は顔を歪ませると、反射的に写真を消去しようとしたが、すぐに手を止めた。
 そして、自分の心をかすめた恐ろしいアイディアに寒気を覚えた。
 
 この写真を会社中の人間にメールしたら、どうなるだろう。
 
 彩花は首を横に振った。
 何を考えているんだろう。この写真を社内メールでばら撒いたって、誰も得する人間はいない。
 月子と森川は会社を辞めることになるだろうし、月子は旦那と離婚、森川と美咲の結婚も破談になるだろう。
 誰かが得するどころか、みんなが不幸になるだけだ。
 
 でも、と彩花は再び考えた。
 月子と森川が不倫しているのは事実だし、森川が結婚しても二人は密会するような雰囲気だ。
 既婚者が別の異性と付き合い続けるなんて、倫理的に間違っている。
 月子の旦那はどうだろう? 他に好きな人がいる配偶者と一緒に居続けるなんて、そっちの方がかわいそうだし不幸ではないか。
 この写真を社内にメールした方が、みんなはショックを受けるだろうが、全てが正しい方向へ向かうのではないだろうか。
 
(――それに、誰もこの写真を撮ったのが私だと気づかないだろうし)
 彩花はスマホを握りしめながら思った。
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