きんいろ
   ☆

 藤枝さんとフリースローの練習をしてから数日後の昼休みだった。私は急いでお弁当を済ませ、三年生の教室が並ぶ三階へと階段を昇っていた。
 手には紙袋に入れた写真集と手づくりクッキー。
 写真集は、夏休みの美術室で佐倉先輩が貸してくれると約束した、空の写真集だ。夕暮れが描けない私に、参考になるかどうかわからないけど夕暮れの空もあるから、と言って。
 実際に貸してくれたのは、九月に入ってからだった。放課後の部活動の時間に美術室で渡された。
 予想通り、私の夕暮れの絵の参考には、ならなかった。載っていた夕暮れの空は、燃えるような薔薇色の空に、教会の尖塔が黒いシルエットになっているものだったから。
 でも、外国の風景みたいで、ため息が出そうにロマンティックだった。他にも、満開の桜越しの水色の空とか、冷たいレモンの月を浮かべた夜の空とか、いつまでも見ていたいような写真がたくさんあって、ぼーっと見蕩れたり何度も見返したりしているうちに、思っていたより長く借りてしまっていた。
 佐倉先輩はいつ返してくれるのなんて急かしたりはしなかった。ね、素敵でしょ? ゆっくり見てね、と言ってくれた。けれど、もう借りてから一週間以上が過ぎた。
 さすがにそろそろ返さなくちゃ。そう思って、夕べ、お礼のクッキーを焼いた。きれいに焼けたのだけを、佐倉先輩用にラッピングした。失敗作は、何でも美味しく食べてくれる部活帰り直後の腹ペコ拓南に、全部あげた。まさか俺のために焼いたの、とふざけて聞くから、部活の先輩に本を借りたお礼の残り、と普通に答えた。拓南は、ふーん、とか言いながら、全部美味しそうに食べてくれたっけ。
 写真集を、借りたときのように美術室で返さずにわざわざ佐倉先輩の教室に持っていこうとしたのには、ちゃんと理由がある。写真集を貸してくれたあと、佐倉先輩は作品を自宅に持ち帰って描いていて、あまり部室に姿を見せなくなっていたから。それから、実は……佐倉先輩のクラスに行けば、もしかして、藤枝さんの顔を見ることもできるかもしれない───なんて下心も、あったかな。でも……。
 三年生の教室がある三階へと上るにつれ、体操着姿で階段を降りてくる生徒の数が増えてくる。ひとクラスどころじゃない人数だ。そして、全員三年生っぽい。
 私は降りてくる三年生たちの邪魔にならないように階段の端を歩いた。何かあるのかな、と不思議に思い始めたとき、佐倉先輩も忙しそうに階段を降りてきた。体操着で、長い髪はひとつにまとめて。友達数人とおしゃべりしていて、私には気づかないで通り過ぎてしまいそうになる。
「佐倉先輩」
 あわてて呼び止めた。足を止めてくれた佐倉先輩に、写真集を返しに来たことを告げると、先輩はちょっと困ったように笑った。
「昼休みも使って、午後いっぱい体育祭の学年練習をするの。ごめんね、教室のロッカーに入れておいてくれる?」
 自分のロッカーの位置を私に教えてると、少し先で待っていた友達のところまで階段を駆け下りて、そのまま行ってしまった。
 体育祭の学年練習? 
 三階に着いてみると、なるほど、どの教室もガランとしていた。最後の数人が廊下を走り、階段を駆け降りていってしまうと、三階にいるのは私ひとりきりになった。
 この学校では、体育の授業は二クラス合同で行われ、奇数クラスの教室で男子が、偶数クラスの教室で女子が着替えることになっている。佐倉先輩は三年五組。教室で着替えるのは男子だ。机の上には男子の制服が、たたんであったり、放り出してあったり。
 もちろん、藤枝さんは影もカタチもない。藤枝さんどころか、三年生男子女子全員、体操着に着替えてグラウンドへ向かってしまったということだ。
 佐倉先輩の教室に行けば、藤枝さんに会えるかも──そんな下心を、神様に鼻で笑われた気分だ。
 別に悪いことをするわけではないのだけれど、なんとなく足音を忍ばせて教室に入った。上級生の教室に入るのは初めてだから、緊張しているのかな。それとも……。
 教室内のつくりは、一年生のものと同じだ。ロッカーは教室の後ろ側にある。そんなに大きくはない。駅にあるコインロッカーのいちばん小さいのより小さい。それが三段十二列に並んでいる。廊下側から出席番号順になっていて……教えられた場所に『佐倉花織』という名前シールを確認して、私はそのロッカーに写真集とクッキーを入れた。
 これで用事は済んだ……のだけど、私は教室を出ていかなかった。
 誰もいない教室にひっそりとたたずんでみる。ここは、私にとって秘密の空間。佐倉先輩と藤枝さんが授業を受けたり、友達と無駄話して笑ったりする場所。ふたりの影とカタチはないけれど、ふたりのこぼした微笑みや吐息の気配はどこかに残っているかもしれない。
 ささやかにときめきながら、しばらく想像してみる。私の知らないふたりの顔を。
 それから、あらためて教室を見回した。藤枝さんの席はどこかなあ、って。正解はわからないけど、少し曲がって並んでいる机のどれかひとつが、藤枝さんの使っている机なんだ。
 丘の上の古いコートで藤枝さんにフリースローを教えてもらったときのことが、私の心に浮かんだ。私がフリースローを成功させたときの藤枝さんの笑顔。ただの体育のテストなのに、膝の使い方がどうとか視線がどうとか、何だかとっても本格的なコーチングで、この人ホントにバスケが好きなんだなあ、と伝わってきた。
 サッカーをやっているときの拓南みたいだった。
 教室内の掲示板に写真がたくさん張ってあるのを見つけて、私は近くに行ってみる。
 学校行事のときにクラスで撮った写真のようだ。最初に目に入ったのは、球技大会の写真。バレーボール、バスケットボール……テニスの写真を、私は探す。あった。顔、小さかったけど、ちゃんと藤枝さんだとわかった。ヘアバンドで髪を止めた、制服姿より子どもっぽく元気な感じの藤枝さんだ。
 右に視線を動かすと、学校祭の写真がある。クラスの出し物で、ダンスパフォーマンスをしたようだ。でも、踊っている生徒の中に藤枝さんは見つけられなかった。川崎さんはいた。センターで踊っている。そして、佐倉先輩もいない。
 はってある写真はパフォーマーだけのようだ。佐倉先輩と藤枝さん、裏方さんだったのかな。音楽とか照明とか。舞台裏で仕事をするふたりの写真、見たかったけれど、ふたりで仲良く作業している写真だったら、へこんだだろうな、私。
 球技大会が七月、学校祭が六月。私は時間を逆にたどって写真を眺めていった。五月の行事は特になくて、四月は──クラス全員の自己紹介写真だった。集合写真でも生徒手帳のような顔写真でもなくて、なんていうか、自由。部活のユニフォームだったり、グループでコスプレイしていたり、『私がスリムだった頃』なんてタイトルで七五三の写真が貼りつけてあったり……。
 佐倉先輩の写真は、三人で写っているものだった。佐倉先輩と、藤枝先輩と──私の胸がどきりとする──柊子の好きな川崎さん、その三人。
 私の知っている高校三年生の三人じゃない。顔も表情も今より子どもっぽい。たぶん、中学生のときの写真だ。着ているのはそろいの深いグリーンのジャージ。真ん中の女の子は長い髪を編み込みにして、両手で胸の前に賞状を持っている。女の子の後ろに並んだ男子ふたりは、それぞれに片手で金メダルを掲げている。三人とも、とてもはしゃいだ笑顔で、賞状の下には『祝💛優勝』とピンクの文字入れがしてある。そして、写真の左上には、マジックで『祝・腐れ縁』と書いてある。
 腐れ縁、と書いたのは、佐倉先輩だろう。ほっそりして流れるような筆跡に見覚えがある。それに、佐倉先輩は自分たち三人のことを『腐れ縁』と言っていたから……。
 私は、三人の笑顔の写真から、目が離せなくなっていた。見ていると、どんどん胸が痛くなるのに。
 これはきっと、佐倉先輩が中学生のときに撮った大切な写真だ。佐倉先輩は周りのノリに合わせる何気なさを装って、精いっぱいの気持ちでこの写真をここに貼ったんじゃないのかな。全然『腐れ縁』なんかじゃない……気持ちを込めて。
 気持ち、届いたのだろうか、あの人に──そう考えて、この写真が貼られたのは四月だったことに気づく。
 ……届いて、ないね。届いていたら、佐倉先輩は優しい瞳を翳らせて、あの人のことを『子どもみたい』なんて詰るように言ったりはしないだろう。
 苦いのに、甘く揺らいだ不思議な声で。
 届いてない──ほっとするのと同時に、胸がもっと痛くなった。『腐れ縁』は中一のときから。じゃあ、佐倉先輩の『腐れ縁』じゃない気持ちは、いつから始まったんだろう……。
 心の中がとても変な具合だ。佐倉先輩と藤枝さんがつきあっていないことに安心しているくせに、佐倉先輩の気持ちが藤枝さんをふり向かせていないことに、さみしくなる。ほっとする以上に、とてもさみしい。
 なぜ、佐倉先輩の気持ちは藤枝さんをつかまえられないのだろう。佐倉先輩は外見もきれいで、性格も優しくて、藤枝さんとはずっと近くで過ごしているのに……。
「誰」
 不意に低く言われて、私はびくりと声のした方を向いた。そして、さらに驚いた。すぐそこの教室の入口に立っていたのが、川崎さんだったから。
 ふり向いた私を見て、川崎さんの表情が険しくなった。
 誤解されたのかと思った。一年生がひとりで三年の教室にいる状況を、誰もいない教室にこっそり入って泥棒とか、そういう……。
「……あの、美術部の佐倉先輩に借りた本を返そうと……」
 急いで説明しようとした。けれど、川崎さんの視線は私から、別のものへと動いた。とっさに視線を追うと、写真があった。川崎さんに声をかけられる直前まで、私が見ていた写真だ。『祝・腐れ縁』と佐倉先輩がタイトルをつけた写真。
 視線を戻すと、川崎さんの顔がさらに険しくなっていて、私は声が出なくなる。
 川崎さんが無言でこちらに歩き出して、私は身をすくめた。そんなわけないのに、殴られそうな気がした。川崎さんの表情は、そんなふうに怖い感じがした。
 一歩下がった私の目の前に、川崎さんの手が伸びた。伸びた手は、掲示板に貼られた写真を乱暴に剥がした。そのまま、ためらいなく、写真を二つに引き裂いて丸めた。
 二つの塊になった写真がごみ箱に放り込まれる。川崎さんはいちばん後ろの机の上のタオルをつかんだ。
「誰にも言うな」
 鋭く言われて、私はこくこくと頷いていた。川崎さんはそれを見てから、私にくるりと背中を向ける───。
 私は、ただただ言葉を失くして、川崎さんが廊下を遠ざかるのを見つめていた。
 やがて、ふたたび無人となった教室で、私は急いでごみ箱をのぞき、丸められた写真を拾い出した。くしゃくしゃになったふたつのピースのしわを伸ばすと、一方には佐倉先輩と藤枝さん、もう一方には川崎さんが、はしゃいだ顔で笑っている……。
 なぜ、という言葉は浮かばなかった。殴られたより、もっとキズつけられた気がしていた。誰にも言うな、と言われたけれど、こんなこと、誰にも言えない。
 私は震える手で写真をスカートのポケット奥深くに入れた。誰にも言えないし、見せられない。ふたつに裂かれたこの写真を、万にひとつでも佐倉先輩の目に触れさせてはいけない。私でさえ心をナイフで切られたような気持になるのだから、佐倉先輩はどんなに悲しく思うだろう。
 数時間後か数日後か、佐倉先輩は写真がなくなったことに気づくだろう。なぜ? と不思議に思うだろう。けれど、答えは永遠の謎にしなきゃならない。写真は『なぜか』貼ってあった場所からなくなってしまった──佐倉先輩にとってはそれだけが事実でいい。写真がなくなったことを残念に感じるかもしれないけれど、それはデータをもう一度プリントアウトすれば済むことだ。
 雲を踏んでいるような覚束ない足取りで教室を出た。胸が痛い。痛くて苦しい。
 明るいおしゃべりでいっぱいの自分の教室には戻りたくなくて、まるで逃げるように丘の小径を急ぎ足で上った。藤棚の下のベンチも通り過ぎて……。

 丘の上の古いバスケットコートには、思いがけず先客がいた。色褪せた青いベンチに座って、九月の空を見上げていた。元気なちょい跳ねショートヘアを風に吹かせて。
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