きんいろ
       ☆

 家でも学校でも拓南は元気。松葉杖を使っているけど、活発に動く。
 朝ご飯の席では、冗談を言ってお父さんお母さんを笑わせる。休み時間は友達としゃべって、笑って。授業が終わると、部活に行く。他の部員の練習を手伝ったり、グラウンドの隅で筋トレしたり。自分にできることをする。
 小さい頃から負けず嫌い。人に泣きなんか見せない。それが拓南だと、私は知っている。
 もともとが陽性だから、そんなにムリをしているわけじゃないことも、わかっていた……けど。

 クラブ展の準備も整って、ひさしぶりに藤棚の下でスケッチしたくなっていた。思ったより忙しかったクラブ展の準備をやっと終え、広く開けた空間で開放感を味わいながら描きたくなった感じかな。
 放課後、さっそくスケッチブックを抱えて丘の小道を上っていくと、ずっと前の方に男子生徒の後ろ姿を見つけた。松葉杖が目に飛び込んで、私は立ち止まる。
 拓南だ。松葉杖の助けを借りて、木立に見え隠れしながら歩いていく。藤棚も通り過ぎ、もっと上へ。
 私は、しばらく、立ち止まったまま拓南を見つめていた。坂道のカーブを曲がって後ろ姿が見えなくなるまで。
 拓南の後ろ姿は『元気』で飾れていなかった。だけど。
 例えば、背番号をもらったのに試合に出られない悔しさとか、ケガに対する焦りとか、拓南が感じているのは、そんなんじゃなくて。
 拓南が神様からもらったギフトは、呼吸するのと同じくらい自然に、誰よりも速く走ったり誰よりも高く跳んだりすることで。
 片翼をもがれた鳥みたいだった、走れない拓南は。
 少し急ぎ足で歩き始めた私は、藤棚を通りかかるとベンチの上にスケッチの道具を置いた。何も持たず、身軽になって、見えなくなった拓南の後を追った。
 やがて木立が開け、私の前に、金網のフェンスに囲まれた古いバスケットコートが現れる。
 拓南はそこにいた。蔓草のからまるフェンスに背中でもたれ、両手を学生ズボンのポケットにつっこんで。
 柔らか木漏れ日が、フェンスに立てかけた松葉杖と、拓南のうつむいた姿に、静かに降り注いでいる。
「拓南」
 呼ぶと、ハッと顔を上げて、私を見た。
 夏の間にすっかり伸びた草を踏み分けて、私は拓南に近づいた。目の前で立ち止まり、拓南を見上げる。
「美雨」
 呼ぶのではなくて、何かを確かめるように、拓南は私の名前を口にした。片手をそっとポケットから引き抜いて、私の頭に置いた。そのまま自分に引き寄せ、コツンと額を合わせると、かすれた声で囁いた。
「今すぐに走りてえ」
「ワガママを言うんじゃありません」
 幼ない子どもに対するような言葉が口をついて出た。目の前にいる拓南が、小さい頃の、気は強いけれど所詮子どもの拓南に見えて。
 拓南は浅く笑った。
「他のやつには言わねえよ」
 おでこを離して、私をまっすぐ見て聞いた。
「情けねえ面してる?」
「少しだけ。でも平気。サッカー部の人も言ってたよ? 拓南は体だけは丈夫だ、って。意外とすぐに治っちゃうんじゃないか、って」
「は? 体だけは? ──言ったの、岡野だろ」
「すごい。正解」
「岡野めー。それは自分のことだろーが」
 怒ったような言葉を使いながら、拓南の表情は柔らかく崩れる。そして、拓南は、風にざわめく木々を見上げた。
 それとも、その上の空かな。
 私たちの間を通り過ぎた風が、強く、甘く、匂った。
 金木犀の花の匂いだ。どこで咲いているのだろう。見回すと、フェンスの内側にあるベンチの横の木が、オレンジの花をつけている。
 柊子がひとりで川崎さんを待っていた、あの色褪せた青いベンチだ。あのとき、佐倉先輩の教室を出た私は、柊子の隣に座って佐倉先輩たち三人の昔話を聞いた。横に立つ木は厚く繁った緑の葉っぱで私たちに涼しい日陰をつくってくれていたのだけれど。
 あの木、金木犀だったんだ……。
「……少し、いいか」
 声を喉から押し出すようにして、拓南が言った。いつのまにか空から私に戻した目は、雨の中に捨てられた仔猫の瞳に少し似ていた。
 拓南が何を望んだか、わかっていたわけじゃない。だけど、驚かなかった。拓南が、私を抱きしめても。
 ……木漏れ日が背中に暖かい。拓南の腕の中で、私はそっと目を閉じる。
 背、伸びたな──と思っていた。中学の頃はそんなに背が高い方じゃなかったのに、高校に入って急に伸びた。いつの間にか、私のおでこは拓南の肩。
 拓南の腕は、硬くて重かった。てのひらは大きくて、私の肩をすっぽりおおった。男の人の手だった。
 でも、私は震えたりはしなかった。斜面を落ちそうになってあの人に抱きとめられたときのようには。
 これは私のよく知っている手だ。
 いつも私のそばにあった手。

 ──あの夕暮れの春にも。

 鮮やかに風景が広がった。
 オレンジの空。細い雲は筆で刷いたような薄い紫。菜の花のセピア。──すべてが金色の光に融けている。
 私を包んでいた空気は、不安のない、不思議な自由。帰り道を失くしていたのに怖くなかった。どこにいるのかわからないのに、どこまでも行けそうだった──ふたりなら。
 私の手を握っていた、拓南の手。
 どうして忘れていたんだろう、あのときふたりだったこと。
 ううん、忘れていたわけじゃない。当たり前すぎて意識できなかっただけ。
 いつだって、私は、私のいちばん近い場所に拓南を見つけることができたのだから。
 さらさらと葉ずれの音、ふんわりと木犀の匂い。──季節は秋だけれど、私たちふたりを包むのはあの五歳の春の気配だった。傷ついた拓南が求めたのは、私ではなく、きっとあのときの穏やかな空気。少しも不安じゃなかったふたりだけの金色の世界。私は静かに腕を上げ、私の夕暮れを抱きしめる。



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