きんいろ
      ☆

 藤枝さんに会いたい。

 柊子は泣きやむと、ひとりで家に帰った。家まで送ろうかと言ったけれど、柊子はひとりで帰りたいと、私の申し出を断った。駐輪場まで一緒に歩いて、柊子が自転車に乗って校門を出ていくのを、見送った。
 駐輪場にひとり残されたわたしは、藤枝さんに会いたいと、強く思った。
 腕時計を見る。美術部の話し合いはもう終わっただろうか。愛ちゃんに確認しようとスマホをポケットから出したら、愛ちゃんのほうから連絡を入れてくれてあった。
 ──部活、終わったよ。みんな帰った。さっきの、二組の吉川さんだよね。何があったのかむっちゃ知りたいけど、別に話さなくていいからねー
 ありがとう、とだけ返信して、私は駐輪場の中を移動する。一年生の駐輪スペースから、三年生の──三年五組のスペースへ。自転車はまだ何台か残っていた。全部男物だったけれど、藤枝さんのものかどうかはわからない。自転車には校名と出席番号を記したステッカーが貼ってあるけれど、私はあの人の出席番号を知らない。
 ……そういえば、下の名前もまだ知らないんだ、と今さら気づく。何回か話して、フリースローも教えてもらって、少しは親しくなったような気がしていたけれど、名字しか知らない人なんだ。
 でも、会いたい。もし、まだ校内にいるとしたら、あの人はどこにいるだろう。
 考えて、他に思いつく場所もなくて、私は丘の小道を上っている。
 傾いた秋の日が、私の背中を押している。
 会ってどうしようという考えはなかった。だって、会えるかどうかもわからない。偶然でしか会えない人だもの。会えたら嬉しくて、会えなかったらさみしい人。
 でも、あの古いコートに行けば、あの人の気配は感じられるような気がした。私にフリースローを教えてくれたあの人を思い出すためじゃない。ひとりで、仲間たちと、バスケットボールで遊んでいるあの人を想像して、感じて、自分の気持ちの行き先を確かめたかった。
 木立が開け、古いバスケットコートが近づく。

 金網のフェンスの向こうのコートには、誰もいなかった。私はうつむいてため息を落とす。
 うん、そんなものだよね。
 それから、金木犀の匂いのする空気を胸に吸い込んだ。目を閉じて、コートを走るあの人を思い描く。仲間たちと楽しそうにバスケをしているところがいいな。声をかけあってパスを回して。シュートを打つまでは真剣な顔。ボールがバサッとネットを割ると、笑顔になって、仲間とハイタッチ。
 現実のバスケットコートは、しん、と静かで……。
 最初は、風が葉を揺らす音かと思った。それ程低い声だった。男の人の話し声だと気づいて、私はぱっと目を開く。
 誰か、男の人の……少しかすれた低い声?
 胸がきゅっと締めつけられた。もしかしたら……まさか……そんな言葉を心の中で呟きながら、その声の密やかな気配に自然と足音を忍ばせて、私はフェンスづたいに声のする方へと進んでいく。
 木立ちの緑のすき間から藤枝さんの横顔が見えたとき、私はもう少しで声をかけるところだった。偶然会えたらとても嬉しい人がそこにいて。
 けれども、藤枝さんは、ひとりではなかった。
 向き合って立っている──川崎さん。
 とっさに葉を繁らせた潅木の陰にしゃがみ込んでしまった。だって、さっきやっと泣き止んで帰った柊子は、私のために川崎さんと言い合いをしたのだ。見つかるのは気まずくて、少し怖い。写真のことも、あるし。
 だけど、すぐに気づいた。──いけない、このままここにいたら盗み聞きになってしまう。
 来たときよりも息をひそめ、そっと立ち去ろうとしたのだけれど。
「たかがフリースローを教えたくらいで、何をムキになってるんだ?」
 藤枝さんの声に体がすくんだ。ううん、言葉に。──フリースロー。教えた。
 えっ、それ、私のこと?
「だから、なんでわざわざおまえに頼むんだ? 女バスに友達がいるのに?」
「そんなの、たまたま俺が通りかかって、話したことあるし、佐倉と知り合いだし、気安かったんだろ」
「へえ」
「逆に俺だって、絵を描いているところにあの子が通りかかったら、アドバイスもらうぞ?」
 川崎さんは鼻で笑ったようだった。
「実は、おまえも嬉しかった? 結構かわいい子で」
「正臣──」
「けど、あの一年、サッカー部の一年とできてんだ。抱き合ってたんだ、ホラ、ちょうどそこだよ。そのフェンスのところで……」
「よせよ」
「嘘じゃない」
「──らしくねえんだよ。サッカー部の一年って、浅羽ってやつだろ? つきあってるんだろ? いいじゃないか、そのくらい。それをわざわざそんなふうに言うな。おまえ、そんなやつじゃないだろう」
 短くて、重い、間があった。
 そして、トーンを弱めた川崎さんの声がした。
「……あの一年の女子が関係ないなら、なぜ佐倉とだめなんだ?」
「佐倉に対してそういう気持ちがないから。それだけだ。あの一年生は関係ない。当たるな。可哀相だ」
 そう言ったあと、藤枝さんは淡々とした声でつけくわえる。
「おまえ、そんなつまらないことをするより、自分の気持ちを佐倉に言えよ」
 川崎さんが応えるまで、少し間があった。
「……言ったら、佐倉が困るだろう……」
「なんでそう決めつけるんだ?」
 今度はいつまでたっても川崎さんの返事はなかった。
 やがて一人が、そしてもう一人が立ち去る足音が聞こえた。私は緑の陰で膝を抱えて体を丸め、すべてをただ聞いていた。
 地面に落とした視線の先で、オレンジ色の金木犀の花が、二つ、三つ、土の上で甘い匂いを放っていた。

 心に霞がかかっている。何も考えられないみたいな。そのくせ心のいちばん底は、とても静かに冷たく澄んでいるような。
 藤棚のベンチに腰掛けて、私は空に広がる夕焼けを見ている。
 空にはひとつの雲もない。真っ赤な空にあるのは、白い星がひとつ。
 同じ場所なのに、春の柔らかな夕暮れとはまったく違う景色が目の前にある。すべてのものの輪郭をくっきりと照らし出す、峻烈な秋の夕日。
 柊子に教えてもらった物語のあらすじは、とても単純ではっきりしていた。
 川崎さんは佐倉先輩が好き。佐倉先輩の気持ちは藤枝さんに向いている。そうして、藤枝さんは──。
 いろいろな事柄がひとつずつ、音もなく、心の底に沈んでいく。いろんな想いがごちゃまぜだった心が、透明になっていく。
 川崎さんが私を嫌悪していたわけ。柊子にあんなことを言ったわけ。
 泣いた柊子。川崎さんが好きだった柊子。今でも好きだと言った柊子。
 藤枝さんにとても会いたかった私。あの春の夕暮れを思い出して、拓南を抱きしめた私。 傷ついた目をして私を抱いた拓南。
 私を──好きだと言ってくれた、隅田くん。拓南を通して私の気持ちを聞いただろうに、何も変わらなかった隅田くん。
 描きたいひとがいる、と言っていた佐倉先輩が描いた、深いグリーンの森。
 夕焼けの赤が、目のふちで不意に滲んだ。風景は涙に滲んでぼやけていくけれど。
 いろんなものが、初めてちゃんと見えた気がした。いろんな人の、いろんな気持ちが。
 ……自分の気持ちも。
 そうして、そんな私を鏡のように冷たく見つめている、もうひとりの私がいる───。
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