通り雨、閃々
その日は彼女が第一子を妊娠したお祝いで、別の同僚と四人で飲んだ。
愛梨は友人の身体を気遣い、ノンカフェインのお茶を彼に渡してもいた。

そして解散後、帰宅の方向が一緒だったからふたりきりになり、久しぶりにボウリングに行こうか、という流れになった。
その時でさえ、まったく恋愛感情はなかった。

「酔ってたから全然真っ直ぐ投げられなくて、ふたりともひどいスコアでね」

酔ってはいたけど記憶を失うほどではない。
相手が友人の夫であることもわかっていた。

「なんか突然、ボールを構える手が目に入って、当たり前だけど私より大きくて骨も太いの。血管もはっきりしてて。そうしたらふっ、とね、『あ、この人も男の人なんだな』って」

私はうつむいて自分の手を見る。
特別手入れしているわけでもない手は、冬を迎えて乾燥している。
ネイルも特にしていない。
それでも男の人の手に見えないのは、サイズだけの違いではないのだろう。

愛梨はその瞬間、初めて彼を「男」として見た。
そういう感覚は、不思議と相手にも伝わるということを、私はよく知っている。

一線を越えて、後悔したのは二人同時だったという。

「あれは気の迷いで、二度と同じ過ちはしないって思ったし、そう約束したのに」

これが最後、これが最後、と言いながら、ふたりは会い続けた。
やめたいのに会いたい。
毎日苦しかった。

「職場の人に見られてね、それからは地獄。辞める以外できなかった。自業自得だけどさ」

茄子は焦げていた。
飲んでも酔えないビールを押しやって、愛梨は茄子を皿の端に移す。

私は相づちを打つこともできず、氷の溶けたレモンサワーを惰性で口元へ運んだ。
ぬるくて薄い。
グラスからしたたった結露が膝に落ちる。

「私ってさ、私が思ってたよりずっとバカだったんだね。バカで最低なクズだったんだね」

そうだね、と心の中でつぶやいた。
愛梨はバカで最低なクズだ。
その向こうで夜の街はキラキラと輝いている。
喧騒に紛れながら、陽気なクリスマスソングも聞こえていた。

「なんであんなことしちゃったのかな。考えなくてもわかることなのに。自分で自分のことがわからない」

「わかる気がする」

私は、光のような金色の髪の毛を思い出していた。
白いシャツから透ける肩のラインと、襟ぐりから覗いていた鎖骨も。

「どうしようもなく触りたくなっちゃうこと、あるよね」

微笑みとともに伏せられた睫毛を見ただけで、身体が叫び出すあの気持ちを、人は何と呼んでいるのだろう。

「恋」と呼ぶ人も「愛」と呼ぶ人もいるだろう。
「欲」と呼ぶ人も「執着」と呼ぶ人も。
「魔が差す」「過ち」「錯覚」「運命」「愚かさ」「弱さ」「本能」。

どう呼んだところで、中身は醜く獰猛な何かだ。
平凡な見た目の薄皮を一枚剥げば、私もバカで最低なクズだった。
私もまた、触れたいと思ったものに手を伸ばしてしまった人間だから。

愛梨のことを、最低だ、と批判する人は多いだろう。
その正しさは主張しやすく、誰も否定できない。
でも、胸を張って罵ることができるまっとうな人たちは、あの衝動を知らないだけだ。
あの甘美な絶望を知らないだけだ。
「まっとう」の皮の下にどんな自分がいるのか、知らないだけなんだ。

「ねえ愛梨。そのひとと会ってたときと、終わった今と、どっちが幸せ?」

窓辺に置いてあったティッシュを二枚取って、愛梨は目元と鼻を拭う。

「……今、かな。すごくホッとしてる」

「そっか」

店の喧騒は遠く、愛梨のすすり泣く声だけが聞こえる。


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