初恋ディストリクト


 ◇澤田隼八の時間軸

 夜が更ければうとうととして、眠りについたけど、不意にはっとして目が覚める。

 何度もそれを繰り返しているうちに朝になっていた。

 起きて台所を覗けば、母がお湯を沸かしているところだった。

「あら、早いのね。隼八もコーヒー飲む?」
「うん」

 母は最近やつれている。

 未知のウイルスのせいで、仕事場のスケジュールが変更されて、色々と振り回されている様子だ。

 休みが多くなり、その分給料にも響いてくる。

 だけど僕の前では明るく振舞っていた。

 僕が事故に遭ってから、多少の困難があったとしても僕を失うことと比べたら何でもないと思うことで気持ちを奮い起こしていた。

 トイレを済ませてからダイニングテーブルについて欠伸をすると、ケトルから蒸気が噴出した。

 母は火を止め僕の目の前を横切る。

「オリンピックは正式に延期が決まったみたいだけど、学校はいつから始まるのかしら」

 母は戸棚からカップを出しながら訊いた。

「世間では延期ブームだけど、うちはいつも通りだと思うよ」

「ちゃんと気をつけるのよ」

「大丈夫だから心配しないで。それよりも、お母さんこそ、気をつけてよ」

「分かってるわ」

 母は心配ないと笑った。

 僕はこのとき、栗原さんのお母さんの事を想像した。

 この世界では栗原さんは事故で亡くなっている。

 大切な娘を失って悲しい思いでいることだろう。

 別の世界線では元気だと伝えてあげたいけど、言ったところで信じてもらえないだろうし、馬鹿げていると気を悪くするのが落ちだ。

 そっとしておくのがいいのかもしれない。

 きっと僕が想像できないくらいの悲しみに包まれているに違いない。

 僕ができることなんて何もないし、僕もまた会うのが怖かった。

 母がテーブルの上に湯気が立つコーヒーカップを置いた。

「今日は何か予定あるの?」

「うん、まあね」

「昨日みたいに遅くならないでよ」

 「うん」と答えて僕はコーヒーカップを手に取る。

 それをフーフー息を吹いて冷ましながら、ぼんやりとした目ですすった。

 いつもなら砂糖とミルクを入れるけど、それなしで今朝は飲んでみたかった。

 やっぱり甘みが感じられないと苦味に舌を刺激されて飲みにくい。

 それでも僕はそれを無理して飲んでいた。

 いつもと違う僕だと母は不思議そうに見ていたけど、特に何も言ってこなかった。

 それよりも、「今日の夕飯は何がいい?」と笑顔で訊ねてくる。

 僕が何かで悩んでいても、美味しいものを作れば元気を出してくれると思っていた。

 僕が事故に遭った時もそうだった。

 母は一生懸命色んな料理を作ってくれた。

 それが母のいつもの気遣いだった。

「なんでもいいよ」

 僕がそっけなく答えても、母はきっと手の凝ったものを作るつもりだろう。

 冷蔵庫の中を確かめて、すでに献立を決めている様子だった。

 コーヒーを飲み終わり、朝の身支度を済ませながら、時計を気にしていた。

 僕はまたあの商店街に行くつもりでいる。

 そこに栗原さんが来ている気がして、もしかしたらまた空間の歪みが発生するかもしれないと思うと確かめずにはいられなかった。

 昨日と同じ時間帯を見計らって、僕は再び奇跡が起こる事を願いながら家を出た。

 今日は黒猫を見かけなかったけど、ドキドキして路地から商店街に入れば、まばらに人が歩いていた。

 向こう側に続く路地をじっと見ていると、隣の婦人服店から気難しそうなおじいさんがハタキをもって奥から現れた。

 僕の方を怪しげに見ながら、店頭に置いてるマネキンに向かってハタキをかけている。

 こんなところでじっと立っている僕を不審者だと思ったのかもしれない。

 お互い意識しているから、気まずさを感じて僕はおじいさんに近づいた。

「あの、この辺りに高校生の女の子を見かけませんでした?」

「あんた、彼女とここでデートの待ち合わせか」

 「いえ、違う……」と否定しかけたけど、僕は言い直す。

「はい、そうです」

「ふーん、こんな場所でね。こんなところで女の子がいたら、すぐに気がつくけど、この店を開けてから、そんな子は来なかったよ」

「そうですか。ありがとうございます」

 僕はお好み焼き屋の隣の路地に戻り、暫くそこで空間の歪みが発生しないか待っていた。

 向かいの店のお爺さんは僕の様子を時折り見ては、首を横に振って呆れている様子だった。

 でも僕はここから動きたくなかった。

 それでも僕の思うように事は起こらなかった。

 ただすぐそこに栗原さんも僕を探しているような気がして、ずっと向かい側の路地を見ていた。
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