初恋ディストリクト

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 ◇澤田隼八の時間軸

 初恋を桜の花のように例えたあと、僕はその桜が咲き誇る桜ヶ丘公園へ行きたくなった。

 そこは栗原さんと僕のデートする場所になるはずだった。

 栗原さんが何度も僕とデートしたいといってくれて、僕は素直にそれを喜んだ。

 僕が初恋の人に似てるなんていったもんだから、栗原さんも僕を意識してしまったところがあったと思う。

 僕はあのとき、栗原さんが本当の僕の初恋の人かもしれないという疑念が拭えなかったのと、いや、やっぱりそうじゃないと否定もして、あの状況の中とても困惑していた。

 実際は本人だったのだけど、それがわかったところで僕たちの存在する世界線が違うから、その初恋は自分の世界では成就させる事ができない。

 でも僕はあの空間で、全てを全力で受け止めた。

 そこで出来る限り僕たちは楽しんだし、そこは誰にも邪魔されない僕たちだけの世界だった。

 まるで僕の初恋のやり直しをするためにチャンスを与えられたようにも思えた。

 その空間も限りというものがあって、広がってから狭まっていく過程は時間制限を表わしていたのかもしれない。

 終わってから色々と思うけど、実際はどんな法則があったのかは知る由もない。

 それでも精一杯に僕は栗原さんと向き合えたと思う。

 ただ好きだと栗原さんにちゃんと言えなかったことが悔しいけど――。

 栗原さんも気持ちが高ぶったことが何度もあって、僕からの言葉を待っていたような気がした。

 でもその時、初恋の人に似てるからという動機で、栗原さんに押し付ける事は憚られたし、そのときになって僕はちっぽけな存在に思えて怖じけた。

 僕の初恋はあまりにも苦くて深く傷ついて泥のようにぬかるんでいた。

 その中に僕は右足を置き去りにしていたから、いざという時になって臆病になってい た。

 頭でこうすべきだと分かっていも、それを行動するには勇気がいると思う。

 最初の一歩から全力で攻めて、力強く飛び立つまで迷いがあった。

 ずっとなかったことにしていたけど、僕はあの事故と向き合おうと思う。

 僕は本当のところ、あの事故が怖くてたまらなかった。

 思い出すと、動悸がして倒れそうになっていた。

 失ってしまったものがあまりにも大きくて、それを認めたら憤って気が狂いそうだった。

 ずっと恨んで殻に閉じこもって何も出来なかったと思う。

 だから僕には栗原さんが必要で、栗原さんは生きているって思っていた。

 それが僕の唯一の生きがいだったから。

 でももう大丈夫だ。栗原さんは生きている。

 そして僕はまた彼女に恋をした。

 二度目の初恋は透き通るように美しく、全てが浄化されていった。


 始業式が終わった後、リミと少しだけ栗原さんの事を一緒に喋った。

 そこに鹿島が割り込んできたから、それ以上話せなくなって、でもリミと鹿島はなぜか意気投合し、気晴らしにどこかへ行こうということになった。

 僕も少しだけ付き合ったけど、途中で抜けた。

 あのふたりが僕をきっかけで仲良くなるのなら僕はこの世界で大事な役割を担ったんだと思う。

 僕は今、桜ヶ丘公園をゆっくりと歩いている。

 手には苺のショートケーキがふたつ入った小さな箱を持ち、桜の花びらが舞う中を栗原さんを思い浮かべている。

 小さい子供と母親が桜の木の下でボール遊びをしていた。

 その側で白い毛がもじゃっとした小型犬が舌を出してハッハしながら見ていた。

 まるで笑ってるみたいだ。

 僕の足元にボールが転がってきたので、それを手にして軽く投げ返した。

「どうも、すみません。ありがとうございます」

 母親が丁寧にお礼を言った。

 僕はどういたしましての変わりににこっと笑って頭を下げた。

 桜ヶ丘公園はなだらかな丘に渦巻きを描きながらてっぺんに続いている。

 もちろん桜もこの丘いっぱいに植えられて、この季節はピンク一色に染まって綺麗だ。

 今が丁度見ごろだ。

 ところどころでお花見をしている人たちもいる。

 今年はお花見を自粛してほしいといわれていたが、そんなの関係なしの人もいる。

 ほんの数組程度だから、密にはなっていない。

 こんないい天気に一番見ごろな桜を見ない方がもったいない。

 時々犬の散歩をしている人とすれ違う。

 僕の持っている箱が気になるのか、くんくんと匂いをかぎに来た。

 飼い主さんが「これっ」て叱ってたけど、僕は全然嫌じゃなかったから「いい犬ですね」と褒めた。

 自然と知らない人と話せるようになったと思う。

 丘の上のてっぺんに来た時、白い大型犬が桜の木に向かって吼えていた。

 飼い主の女性は「やめなさい。もう十分でしょ」と繰り返し言ってリードを引っ張っていた。

 だけど犬は吼える事をやめなかった。

 何かがいるのかなと僕も気になって近づいた。
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