夏の終わりと貴方に告げる、さよなら

「もちろん、君の意見を尊重するよ。けど、このままでいいの? 彼に馬鹿にされたままで」

 立花は、きつい物言いで嶺奈を挑発した。

 これが彼の本性なのかは分からないが、気の強い嶺奈に、発破をかけるには充分だった。

「するわ。結婚。もう、何も失うものはないから」

 逡巡する暇もなく答える。

 意地を張っているように思えるが、これが嶺奈の答えで、本心だった。

 突然目の前に現れた悪魔と、契約を交わしているような気分になる。

「分かった。けど、実際には結婚しないから、そこは安心して。戸籍に傷をつけたくはないでしょ」

 彼の優しさが見え隠れする度に、少し苛立つ。

「今さら、そんな気遣いは要らない」

「これは、あくまでも、彼の感情を揺さぶる為の計画だから。俺は今日から君の婚約者になる。偽の、ね」

「ええ、分かってる」

 そう、私達は本当の婚約者にはなれない。なり得ないのだ。だから、彼は私の気持ちにあえて釘を刺して、制している。

 間違いなど、起こしてはいけない。

「さっきも言ったけど、君に手は出さない。俺の隣に居てくれるだけでいいよ」

「何もするなってこと?」

「そうだな。軽い演技くらいは期待したいかな」

「演技……」

 上辺だけの愛想を振り撒くのは慣れている。けれど、演技をすることに些か不安があるのも事実だ。

 ましてや、私が演じるのは彼の婚約者。
 
「不安なら練習してみる? 俺のこと良平って、呼んでみて」

 彼はソファから立ち上がり、嶺奈に近付いた。

 5センチの低いヒールの付いたパンプスを履いているとはいえ、彼の身長の高さに今更ながら少し驚き、見上げる。

 彼の顔を間近でしっかりと見たのは、これが初めてだった。

 清潔感のある黒髪は、彼の端整な顔立ちをさらに際立たせている。

 平行な二重目蓋を少し細めて、微笑する彼に、不覚にも少しだけ、胸が高鳴った。

「り、良平さん……」

「及第点、かな。嶺奈。改めて、よろしく」

 そう言いながらも、彼はどこか満足げな表情をしている。

 亮介以外の男性に、名前を呼び捨てにされたのに、別段と嫌な気分にはならなかった。
 
「……ええ、宜しく。良平さん」

 この不埒な感情を悟られないように、視線を逸らして、嶺奈は答えた。
 
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