それは手から始まる恋でした
「さっむ!」
「あれぇ? 波野さぁん上着持ってきてないんですかぁ?」

 軽井沢が涼しいのは夏だけだ。他の季節は寒い。5月は冬の気候だった。

「波野さんって意外と天然なんだね。上着貸してあげようか。ちょっと待っててね」
「戸崎さん。お優しい。ありがとうございます」

 戸崎さんが鞄の中を漁っていると頭の上に何かが覆いかぶさった。

「これ着てろ」
「高良君優しいね」
「別に。あんな恰好されると見ているこっちが寒いので」
「だって。波野さん。それじゃあ出発しようか」

 慰安旅行の通知は急だったが、鮫島さんは高良との旅行は貴重だと入っていた予定を断り、戸崎さんもこっちの方が面白そうだからという理由で予定をキャンセルしたらしい。

 その他10人ほど新入社員から中堅社員までが参加した。部長により対象者が選ばれたが、部長が参加できなかったためか課長職以上は参加NGになったようだ。

「でもぉ、こんな時期にぃ、よく旅館、空いてましたねぇ」
「俺にできないことはない」

 お金か脅しか皆は聞こえなかったふりをしている。旅館の専用のマイクロバスが駅まで迎えに来てくれていた。

「波野さんは打合せがあるからこっちに乗って」

 私はマイクロバスではなく、黒塗りの車に乗せられた。VIP用リムジン。

「とりあえず荷物置いたら自由行動だ。夕食参加希望者は開始時刻までにレストランにくるように。あと、何かあったらすぐに対応しなきゃいけないから波野さんは俺と行動するように」
「携帯で連絡を取り合えばよいのではないでしょうか」
「ダメだ。あと他の連中は上手く巻くように。大人数で行動なんて耐えられん」

 高良は小さな声で言った。

「なんのための旅行ですか?」

 私たちは旅館に荷物を置いて外に出た。半数の社員は散っていったが、残りの半数は高良から離れようとしない。

「波野さん、こっそり皆から離れちゃおうか?」

 戸崎さんは最後尾を歩く私に声をかけてきた。そうしたいのは山々だがまず無理だ。

「私は仕事なので戸崎さんはどうぞ自由行動を楽しんでください」
「いや、そういう事じゃないんだけどね」
「お前らこれで自由に遊んで来い!」

 群れに耐え切れなくなった高良が若手社員にお金を渡すとおごり目当てだったのか早々に散っていった。鮫島さんは高良と離れる気はないようだ。
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