それは手から始まる恋でした
   ***

 紬に会わせてもらうために永井に会いに行った。でも紬があいつの家にいることを知った後では紬に会わせてくれとは言えなかった。紬は俺よりあいつを選んだ。口をついて出る言葉はどうでもいいことばかりだった。会社で会えるならまだましかもしれない、あの時はそう思っていた。

 穂乃果は家から出て行ってくれない。でも穂乃果はかわいそうじゃないか。旦那に浮気され、両親からは俺の家に転がり込んでいることで激怒されている。彼女には帰る家がない。だから俺は泊めてやっている。ただそれだけだ。

 穂乃果がまだ家にいることで、会社で紬に会っても後ろめたい気持ちから目を合わせられない。顔を見ることができない。穂乃果が会社にやってきたことでさらに状況は悪化した。何度も来るなと言ったが聞く耳を持たない。

 こんな状況の俺が紬に何を言えるだろうか。毎日が苦しい。かといって紬をクビにしたくはない。なんでもいい。彼女と繋がっていたい。紬との日々が愛おしい。

 強がる紬に無邪気に笑う紬、無駄に部屋を綺麗にして満足そうに微笑む紬、俺に触られて恥ずかしそうな顔をする紬。俺にとってはどれも愛おしい紬だ。

 紬がいなくなった寝室は書類で溢れかえっている。紬が泣いていたりしないだろうかと心配になる。でも紬の隣にはあいつがいる。俺じゃないあいつが。

「今日こそ入っていい?」
「入ってくるな。入ってきたらすぐに追い出す」
「ケチ。帰ってきてもリビングにも寄らずに寝室。休日も寝室。どれだけ寝室が好きなの?」
「うるさい。さっさと寝ろ」
「冷たいなぁ。このルームウェアどう? 新作なの。可愛い?」
「興味ない。さっさとドア閉めろ」

 俺は家で穂乃果から距離を取っている。まだ紬が忘れられないから、一縷の望みに賭けている。

 でも今日の紬は変だった。俺は紬の眠れないという言葉に反応してしまい、強く当たってしまった。あんなこと言うために残ったんじゃなかったのに、彼女を泣かせるために話しかけたんじゃなかったのに。

 そろそろ限界かもしれない。彼女なら別の部署でも上手くやれるだろう。俺が側に居ると彼女をまた泣かせるかもしれない。

「穂乃果、仕事終わったらお前の部屋に行く」
「本当? 待ってるね」

 きっとこれでいいんだ。俺は元々穂乃果が好きだったじゃないか。穂乃果の代わりが紬だったんだよ、きっと。だからこれでいいんだ。
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