さつきの花が咲く夜に
 その涙に、自分を見つめる赤い眼差しに、
満は立ち尽くしてしまう。満留はぐにゃりと
歪んでしまった視界を手の甲で遮ると、小さ
く首を振った。

 「ごめん、ごめんね。満くんは何にも悪く
ないのに。でもっ、なんで?どうして今日に
限って、お母さんの傍を離れちゃったんだろ
う?そう思うと悔しくて……自分が許せなく
って」

 「……満留さん」

 泣いている場合じゃないのに。
 満は何ひとつ悪くないのに。
 わかっているのに、色んな感情が溢れて
溢れて、涙が止まらない。

 ずっと長いこと、一人で抱え込んでいた


――母を失うかも知れないという、恐怖。


 けれど満の傍にいる間だけは、一瞬でも
忘れられていた。
 辛い思いを抱えているのは自分だけじゃ
ないのだと、自分を慰めることが出来た。

 そんな心の隙が、神様に伝わってしまっ
たのだろうか?それとも、自分が傍につい
ていても、母の意識を留めることは叶わな
かったのだろうか?


――わからない。何も、わからない。


 満留は手の甲で、ぐい、と涙を拭うと、
満の手からトートバッグを引き抜いた。

 「ごめん、満くん。私……帰るね」

 すん、と洟を啜りながらそう言った満留
に、尚も、満は「送るよ」と声を掛ける。

 その声が変わらずやさしかったから……
どうしても抑えることが出来なかった。満留
は、ふい、と顔を背けると震える声で言った。
 
 「カレー、食べに来なければ良かった……」

 満が息を呑む気配がした。
 けれど、そのひと言を口にした瞬間、満留
は満の横をすり抜け、逃げるように玄関に向
かってしまう。

 巻き戻せるなら、時間を巻き戻したかった。
 それが叶わないなら一秒でも早く、一人で
母の元へ駆けてゆきたかった。

 満留はきちんと揃えられたパンプスに足を
通すと、泣きながらドアを開け、家を飛び出
して行った。そして川沿いの道を駆けてゆく。

 涙に揺れる夜道は悲しいほどに美しく、街
灯の光も車のヘッドライトも、煌めきながら
視界の中で踊っている。満留は脱げる踵に何
度も足を取られながら、満と走った横断歩道
を走り抜けた。

 信号を渡り終え、黒い影に塗られた病院が
近づいて見えても一度も振り返ることなく。
ついに、満が後を追ってくることもなかった。
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