さつきの花が咲く夜に

――ずっと、気になっていることがあった。


 あの日、病室の向こうから祖母の怒鳴り声
が聞こえた瞬間から、俺は気になっていた。
 もしかしたら、自分の知らないところで、
こんなやり取りが幾度も繰り返されていたの
ではないか、と。

 祖母の俺に対する愛情は、とても深かった。
 『祖母である』という領域を、越えるほどに。
 けれど、そのことが母として自信が持てず
にいるこの人の心を、俺から遠ざけてしまっ
たのではないか、と。

 そう思っていても、一度すれ違ってしまっ
た心はなかなか近づくことが難しく、だから
どちらも意地を張ってしまったのかも知れない。

 本当は寂しいと口に出来ないまま、俺も母
も、心に『孤独』を抱えてしまった。

 俺は小さく息を吐くと、不平を言った。

 「……言い訳だよ。婆ちゃんになんと言わ
れようと、母親なんだから愛情を見せるべき
だった。俺の知る限り、母さんがやさしかっ
たことは、一度しかないよ」

 冬の日の赤いカーディガンと、頭を抱く手
の温もり。それだけが母の思い出で、いまは
その手がずっと俺の右手を握りしめている。

 母はまた小さく何度も頷くと、自嘲の笑み
を浮かべた。

 「……そうね、ぜんぶ言い訳だわ。でもね、
心が折れてしまったのよ。ほとんど一緒にい
られない私にあなたは全然懐いてくれなくて、
ものすごいお婆ちゃん子で。だから、試しに
訊いてみたの。『お母さんとお婆ちゃん、ど
っちが好き?』って。そしたら『お婆ちゃん』
って、あなたは笑って即答した。憶えてない
でしょうけど」

 「は?いったいいつの話だよ」

 「あなたが四つのとき」

 「はぁ!?そんなの憶えてるワケねーじゃ
ん!まさかそれが理由で、いままで不貞腐れ
てたのかよ。子どもかよ!」

 あまりの馬鹿らしさに語気を強めると、つ
いに母は泣き出してしまった。

 「……っ、つれない態度を取れば、あなた
が寂しくて私を追いかけて来てくれるんじゃ
ないかと思ったのよ。あなたにはわからない
でしょうけど、私には母親としての自信が何
ひとつないの!あなたがどんな食べ物が好き
で、どんな色が好きで、何をしてあげれば
喜んでくれるのかさえわからないんだから。
大好きなお婆ちゃんさえいれば、この子は
寂しくないんだって思ったら、惨めで、悲し
過ぎて、素直に笑えなかったのよ」

 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらそう吐き
出した母に、俺は言葉を失う。

 この人は母親としてはあまりに未熟で、
とても子どもっぽいところがあって、どうし
ようもなく不器用だけど、決して、子どもを
愛していないわけではなかったのだ。

 子育てに対する祖母との考え方の違いも、
母が母らしくいられなかった要因のひとつ
なのだろうけど、そうと知っても俺は祖母を
責める気にはなれなかった。
< 89 / 106 >

この作品をシェア

pagetop