楽園 ~きみのいる場所~
一か月ほどして、ようやく唇を重ねた直後、彼女は誰にも何も言わずに突然転校してしまった。
たった一か月の間に、何度彼女の手を握っただろう。
手の上でシャープを回す俺の指をじっと見つめて、自分は指が短いとはにかんでいた彼女。
あの後、シャープ回せるようになったのかな。
俺は回せなくなってしまった。
今の俺を見たら、彼女はなんて思うだろう。
何も言わずにいなくなってしまった彼女に思いを馳せた。
髪……解けなかったな。
いつか、きつく結んだ髪を解きたいと思っていた。
もちろん、下心ありありで。
彼女はわかってなさそうだったよな。
フッと笑った拍子に力が抜け、手からボールが転がり落ちた。
ただ、ボールを持っていることが、今の俺には難しい。
今、目の前に彼女がいても、この手じゃ髪を解けないな……。
怪我をしてから、初めて思った。
悔しい――!
事故の後、意識のないまま手術を受け、二日ほどして目が覚めた。その後一か月半ほどでギプスが取れて、後遺症が残ったことが分かった。再三の検査で、リハビリ次第ではある程度までは回復すると診断された。そして、先の見えないリハビリを放棄し、俺は退院した。
この二か月、現実を悲観して泣いたり喚いたり暴れたりすることはなかった。落ち込んで鬱になることも。
なぜか、とても冷静に現実を受け入れた。
なのに、今になって、悔しさや情けなさ、もどかしさなんかの感情がどっと押し寄せてきた。
どうして俺が、こんな目に――!
足元のボールを睨みつけ、俺は左足でそれを踏みつけた。
こんなもの――っ!
力いっぱい踏みつけて、足首を捻ってグリグリと踏み回し、それでも足りなくて、足を上げるとダンッと思いっきり足を叩きつけた。
「どうしました?」
お義姉さんの耳にも届いたようで、何事かと駆け寄ってくる。そして、すぐに気が付いた。
ボールを握っているはずの右手は空で、左足の土踏まずから黄色い半円の物体が覗いている。
手のリハビリ用にと折角買って来たのに踏みつけられたのでは、気分を悪くしたろう。
左足を上げると、ぺちゃんこになったボールが酸素を取り込み、ゆっくりと身体を膨らませる。
お義姉さんは俺の足元に跪き、ボールを拾い上げると、だらしなく広げている右手にのせた。再び、指を曲げて握らせる。
「明日は、足のリハビリ用にも何か買って来ますね」
肘までシャツをまくっていた彼女の手は、冷たかった。
「シャープペン、指で回せますか?」
「え?」
「回せたんですよ、昔は。最近は……してなかったからわからないけど」
「すごいですね。私は回せないんです。どうしても、指の動きがわからなくて。それに……指も短くて……」と言いながら、彼女は自分の手を組んだ。
「指が短いんじゃなくて、手が小さいんですよ」
俺は彼女の手を見つめながら、言った。
彼女もまた、自身の手を見つめる。それから、俺を見た。
「また回せるようになったら、教えてください」
そう言うと、台所に戻って行った。
お義姉さんの前でシャープを回したら、きっとずっと見てるんだろうな。
ふと、シャープを回す俺の指を真剣な顔で見つめていた彼女を思い出した。
早坂……。
俺は右手の人差し指に力を込めた。
動かないこの指にも、まだ価値があるだろうか。
次に中指。それから、親指。力を入れているつもりなのに、なかなか曲がってくれない。
頑張れば、いつか彼女に再会できた時、髪を解けるだろうか。
気が弱っている今だから、美しい記憶の中の彼女を思い出す。ただそれだけかもしれない。
実際に彼女に会えても、もう髪は結んでいないかもしれない。シャープを回して見せても、くだらないと笑われるかもしれない。
それでも、今だけ、彼女を頑張る理由にしたかった。