楽園 ~きみのいる場所~

 真面目で大人しかったけど、自分の意見はハッキリ言えたし、キスの時も同意は得た。俺が嫌いなら、そう言ったはずだ。



 なんでこんなに思い出すんだろ……。



 理由はわかっている。

 あの頃が一番、楽しかった。

 あの頃が一番、自分らしくいられた。



 思ったより(こた)えてんだな、怪我(これ)……。



 動かない指を見つめて、思った。



 目標……か。



 リハビリをするにあたって、お義姉さんに「目標を決めましょう」と言われた。

 簡単な目標を一つずつ達成していくことで、やる気を持続させようというのだ。

 とりあえず、さしあたっての目標は『スプーンやフォークを落とさずに食事を終えること』。

 意外にも早く達成しつつある。

 で、昨日、お義姉さんに次なる目標を聞かれた。

 俺は、「考えておきます」と答えた。



 トイレや風呂は……とりあえず何とか出来ているしな。

 着替え……か?



 そう。

 あちこち不自由ではあるけれど、『出来ない』ことが多いわけではない。

 苦労はするが、自分の尻も拭けるし、頭も洗える。時間はかかるが着替えも出来る。

 日常生活で出来なくて困っているとすれば、ボタンをかけられない、外せない、ファスナーを閉じられない、ことくらい。

 だから、俺はいつもTシャツにスウェット。



 ボタンはハードル高いか?



 左手の親指と人差し指を曲げてくっつけようとしてみたが、どうしても七センチほどの距離が縮まらない。



 こんなんじゃ、あのボタンも外せない。



 不意に。瞼の裏に浮かんだのは、きっちり留められたお義姉さんのシャツのボタン。それから、胸の膨らみ。



 だからっ――!



 俺は自分の妄想を打ち消した。

 毎日、お義姉さんのいない小一時間。

 気味が悪いほど静かになるこの時間が、今は嫌でたまらない。

 お義姉さんがいると賑やか、ってわけじゃない。ただ、彼女の気配だけで落ち着けた。



 なんで離婚したんだろ……。



 一人でいると、どうしようもないことばかり考える。



 早く帰って来ないかな……。

 ――って、高校生以下じゃん。



 俺は沈み過ぎるソファの上で、ただひたすらに彼女の帰りを待っていた。

 ゆっくりと瞼が下りてきて、暗闇に包まれる。

「間宮くん……」

 懐かしい声に、懐かしい名前。

 柔らかな感触と、石鹸の香り。

 甘い夢を見ていた。

 戻れない、幸せだった瞬間(ひととき)の夢を。

「はやさ……か」

 夢の中で、彼女は涙を浮かべて微笑んでいた。

 夢の中だとしても、彼女に会えて嬉しいはずなのに、意識を手放す瞬間に思い出したのはお義姉さんの顔だった。



 早く帰って来ないかな……。



 遠くでビニールの擦れる音が聞こえる。

 ピーッという電子音が聞こえた瞬間、止んだ。

 トントントン、ザクザクザク、というリズミカルな音が心地良い。

 ジューッという食欲をそそるフライパンの音に、ハッと目を覚ました。

 いつの間にかひじ掛けにもたれて眠っていた俺の身体には、タオルケットがかけられている。

 俺は右手をひじ掛けに置いて力を入れ、身体を起こす。

「あ! 目が覚めました?」

 ソファの軋む音に気が付いたお義姉さんが駆け寄ってくる。

 俺の体勢を落ち着けようと、正面から腰を抱えるように身体を密着させた。

 石鹸の香りに、朧げな夢の香りと感触を思い出す。

「ありがとう」

 彼女は柔らかく微笑むと、パッと離れて台所に戻った。

「お好み焼き、もうすぐ焼けますから」

 フライパンだと思っていた音は、ダイニングテーブルの上のホットプレートだった。

 肉やキャベツの焼ける匂いと音に、俺の腹が音を立てて喜んだ。

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