楽園 ~きみのいる場所~
「いらっしゃいませ」と、男性が箱の乗客にお辞儀をした。
「お泊りのお客様でいらっしゃいますか?」
「ああ。明堂悠久と萌花だ」
驚いて、顔を上げそうになった。
もちろん、悠久くんの名を告げた男が彼ではないから。
ちらりと視線をだけを上げると、萌花が自称明堂悠久の腕に胸を押し付けていた。
「お待ちしておりました。あちらでチェックインとご案内をさせていただきます」と言って、男性がカウンターに向けて手を伸ばす。
萌花は男性の影に隠れた私に気づくことなく、カウンターに向かって進んだ。
二人が完全に背を向けたことを確認して、私はエレベーターに乗り込んだ。
「案内は大丈夫です。ありがとうございました」
私はペコッと男性に頭を下げた。
男性は身体半分だけエレベーター内に乗り出し、最上階のボタンを押す。
「では、ここで失礼致します」
扉が閉まり、私はほうっと声を出して息をついた。
夫婦を装ってホテルにチェックインするなんて、そういう……ことよね。
最上階に到着したエレベーターから降りずに、一階のボタンを押した。
チーズケーキを食べる気分ではなかった。が、すぐに思い直し、慌てて今いる階のすぐ下の階のボタンを押す。扉が開き、閉まり、私はもう一度最上階に向かった。
チーズケーキを二個テイクアウトして、私はホテル前に停車していたタクシーに乗り込んだ。
萌花に、悠久くんへの愛情があるのならば、私は彼の前から消えるつもりだった。
悠久くんが明堂の姓を名乗ることは、悠久くんのお母さんが望んだことだ。私の為に捨てて欲しくない。
そう思って、萌花に彼を迎えに来て欲しいと頼むつもりだった。
だけど――。
私は、もう一度萌花に電話をかけた。
今度は、三度のコールで繋がった。
『なに?』
挨拶もなく、不機嫌そうな声。
「萌花、あのね、明堂さんの身体もだいぶ動くようになったから、そろそろ私のお世話の必要もないかなと思って。あとは、萌花がお世話を――」
『――完全に元通りなの?』
「完全……ってわけじゃないけど、杖がなくても歩けるし、両手もほとんど――」
『――完全に元通りになるまで、世話をして』
「だけど――」
『――世話が必要なくなるまで、帰されても困るのよ。自分で言い出したんだから、最後まで面倒見なさいよ!』
そう言って、電話は切れた。
萌花に、悠久くんへの愛情や心配がないことだけが、はっきりしてしまった。
私はチーズケーキの箱を膝に載せ、スマホで悠久くんの会社を検索した。会社のホームページを開き、トップページから役員一覧のページに飛ぶ。
目当ての写真を見つけ、タップする。
常務取締役、明堂要。
萌花と一緒に居たのは、やはり悠久くんのお兄さんだった。
不倫なんて……ダメなのに……。
そんな当たり前のことが、とてもくだらないことのように思えた。