楽園 ~きみのいる場所~
 俺は彼女の肌から唇を離した。

 シャツの襟から、鎖骨の少し下が見えた。

 僅かに赤い皮膚が盛り上がっている。

 二センチほどの古い傷。

 ベッドで彼女に触れた時、暗いから見てはいないけれど、手触りで同じような傷が彼女の腹や腰にあることはわかっていた。

 以前、彼女自身も言っていた。

 事故の時の傷がたくさん残っている、と。

 その傷のせいもあって、自分には幸せな結婚は出来ないと思っていたとも。



 傷なんて――!



 俺は傷なんて気にしない。

 楽が、不能な俺を笑うことなく、尽くしてくれているように、俺も彼女の傷にキスをして、何でもないことだと教えたい。

 俺は楽のシャツのボタンを一つだけ外した。

 彼女を抱きたい一心でリハビリを頑張った甲斐があって、指先でボタンを外すくらいはわけなくできるようになった。

「悠久く――っ!」

 彼女の傷に口づける。

 楽が腰を引いて離れようとしたが、俺はそれを許さなかった。

 何度もキスをした。

 チュッと口づけては離し、また口づける。

 楽が俺の服をギュッと握り、小さく息を吐いた。

「愛してるよ、楽」

 そう言って、彼女を強く抱き締めた。

「愛してる……」

 再会してから間もないが、毎日一緒に居て、どんどん想いが膨らむ。

 普通の恋人のように会えない時間に相手を想うことや、会える日を心待ちにするような緊張感や高揚感とは違うけれど、ずっとこうして一緒に居たいと、ずっとこうして楽をこの家に閉じ込めておきたいと、強く思う。



 この家が、楽の世界の全てならいいのに。



 俺は外したボタンを掛け直し、戸惑う楽の手を引いてダイニングに座らせた。

 そして、寝室のチェストから封筒を持って戻り、彼女の正面に座った。

「弁護士が帰った後、これを貰いに行って来た」と言って、彼女に向けて封筒を差し出した。

 二通。

 楽は封筒を手に取り、中身を取り出す。横に二つ折り、縦に三つ折りになった薄い紙を縦にだけ広げる。

「離婚届……」

 それから、もう一通を取り出す。

「婚姻届?」

「うん」

 俺は掌を上にして、彼女に向けて差し出した。楽は、離婚届と婚姻届を広げたまま、俺に差し出した。

 受け取った二通を完全に広げ、手で折り目を伸ばす。それから、まず、離婚届を正面に置いた。

「悠久くん……?」

「調停で決着がついたら必要ないかもしれないけど」

 ダイニングテーブルとキッチンの間のカウンターに置かれたペン立てから、ボールペンを抜く。そして、そのペンで、離婚届の『夫』の欄に自分の名前を書いた。

 明堂悠久、と。

 住所は、萌花と暮らしていたマンション。

 楽は何も言わずに、俺の手を、ペン先を眺めていた。
< 72 / 167 >

この作品をシェア

pagetop