楽園 ~きみのいる場所~
「悠久。私は離婚なんてしないし、この子はあなたと私の実子として生まれてくるの。世の中には離婚三百日問題なんてあるらしいけど、私たちは離婚しないのだから関係ないわね」
今度は、紛れもない脅迫。
離婚三百日問題とは、離婚後三百日以内に出産した場合、その子供は元夫の子供と推定され、出生届を提出した際には元夫の嫡子として戸籍に登録されるというもののことだろう。
萌花の腹の子が四か月ということは、生まれるまで六か月だとしても百八十日。
どこのだれかもわからない男の子供の父親にされる――!?
全身が凍りついたのではと思うくらい、身体が冷たく、ピクリとも動かせない。
呼吸をするのも忘れていた。
心臓が全身にいくつあるのか、鼓動がうるさい。激しい。
「ねぇ、悠久。離婚調停のことはお義父さまには言わない。だから、帰って来て? 妊娠中に一人は不安だわ。あの女を気に入ったなら、この家の家政婦として雇ってもいいの。家政婦兼ベビーシッターとして住み込みで働いてもらいましょうか」
「あの……女?」
「楽のことよ。行く場所もないんだし、可哀想だものね」
「可哀想なんかじゃ――」
「――離婚のこと、パパが知ったら怒るわね。あ、パパの知り合いには金を持て余した寂しいじじいもいるから、引き取ってもらえるかも? 家政婦か介護士か、愛人? うまくいけば後妻になれるかも」
ケラケラと笑う萌花を殴りたくて、グッとこぶしを握る。そこから全身に体温が戻っていく。
女だとか妊娠しているだとか、全部忘れて思いっきり殴りたかった。
けれど、わずかな理性と、ふっとよぎった楽の不安そうな表情が、俺を諫める。
肩を上下させて、ゆっくりと深呼吸をした。
「とにかく、これはもう必要ないわね」
萌花は母子手帳を閉じてテーブルに置くと、その手を離婚届の上に置き、勢いよく握り締めた。
くしゃくしゃっという乾いた音が響く。
それから、それを握ったまま持ち上げ、俺の顔の前でビリビリに破いた。何度も。
「早く帰って来てね、あなた?」
俺はマンションを飛び出した。
常駐しているタクシーに乗り込み、行き先を伝える。
ジャケットの袖に小さな白い紙きれを見つけて、大袈裟に払った。
家に着くまで、運転手に何度「大丈夫ですか?」と聞かれたかわからない。
それほど、俺は普通じゃなかったのだろう。
間宮の表札のかかった家に帰り、出迎えた楽を腕に抱くまで、俺は震えが止まらなかった。