楽園 ~きみのいる場所~
12.逃避行、結ばれる夜



「出社後、しばらく悠久には監視がつくだろう」

 寝室で悠久が着替えている時、央さんが言った。

「今回のような事故が二度と起きないように、移動は完全に社用車になり、あらぬ噂が立たないように、社とマンションの往復以外は制限されるはずだ」

「そう……ですか」

 驚きはしない。

 ある程度の権力や資産を持つ人間は、他者を虐げることも操ることを厭わない。

 私自身、事故後は父親に軟禁された。

「ここで悠久を待ち続けるのか、別れを選ぶのか、きみの自由だ」

 この家で悠久を待ち続けようと思ったのは、嘘のない気持ち。

 けれど、『いつまで』待つのか、待てるのかまでは考えていなかった。

『いつまででも』待てるだなんて言えるほど、思えるほど、私は世間知らずではないし、小娘でもない。

「ゆっくり……考えます」

 時間はある。

 嫌というほど。

「そうか。だが、考えている間は、この家にいて欲しい」

「え?」

「出て行くつもりだろう?」

 図星だった。

 悠久を納得させるためにこの家で待つと言ったけれど、悠久がいないのに住み続けるわけにはいかないと思っていた。明堂会長も萌花も、私がこの家に住み続けていると知ったら、ただでは済まされない。

「悠久が監視下で大人しくしている限りは、この家のことは誰も気に留めないはずだ。だから、きみが悠久との別れを決断するまでは、ここにいて欲しい」

「ですが――」

「――悠久が社に戻れば、状況は大きく動く。それに対応するためにも、頼む」

 意味がわからなかった。

 ただ、私がこの家を出ることで、央さんや悠久に不都合があるのだろうということだけはわかる。

 悠久はどう思っているかわからないけれど、私は央さんが私と悠久にとって『敵』ではないと思った。

「わかりました」

 私の返事を聞くと、央さんはジャケットの内ポケットから封筒を取り出した。

 中を見るまでもない。

 都市銀行の封筒に入っているものと言えば、現金だ。

「いりません」

「手切れ金の類のものではない。急な退職に対する、正当な手当だ。短い期間とはいえ、きみはよくやってくれた。心持ちはどうであれ、悠久があれほどの回復を遂げられたのは、きみのお陰だろう。それに――」

「――なにやってんだよ!」

 着替え終えた悠久が、声を荒げる。

 普通に考えれば、手切れ金を渡しているようにしか見えない。

 悠久もそう思ったのだろう。

「そんなもんで楽を追い払おうとするなら――」

「――退職金だ。他意はない」

「だったらなおのこと、あんたに払ってもらう筋合いはない。楽の雇い主は俺だ。俺が――」

「――すぐにまとまった金を渡せるのか?」

「え?」
「何も俺が払うとは言っていない。後できっちり返してもらう。俺も退職後の生活があるからな」

 そう言って央さんはお金をダイニングテーブルに置いた。

 そして、私たちに背を向ける。

「先に出ている。コーヒーをありがとう」

「いえ」

 悠久さんが出て行き、ピシャリと玄関ドアの閉まる音がした。

「楽」

 そっと私の手を取る。

 スーツを纏った悠久は、なんだか遠い存在に思えた。

「ごめん、俺――」

「――悠久の部屋の本……全部読み終えちゃう前に帰って来てね」

 私は彼の手を握った。

 行ってらっしゃいと笑顔で言いたいのに、私は涙を堪えるのが精いっぱいで、彼の顔もまともに見れない。

 別れじゃない。

 そう自分に言い聞かせ、喉の奥から何とか言葉を絞り出す。

「行って……らっしゃい……」

 手を引かれ、ふわりと悠久の胸に抱き寄せられた。

「ちゃんと、全部、片付けて帰ってくるから」

「うん」

 彼の手が私の肩をしっかりと抱く。

 突然、こんなことになって動揺しているのは私も悠久も同じ。

 このままずっと一緒にいられるなんて思っていたわけではないけれど、萌花の妊娠や急な職場復帰は完全に予想外だ。

 この家に残る私は寂しさに耐えるだけだが、悠久は鬱蒼とした気持ちのまま仕事をしなければならない。それも、事故のあった現場で。

 彼の精神的負担を思うと、そばにいられないことが心苦しい。

「私、待ってるから。大丈夫だから」

「……楽」

 きつく抱き合って、互いの温もりを肌に刻む。



 大丈夫。

 これは、私たちが一緒にいるために必要な別れだから……。



 悠久の胸を両手で押し離し、私は顔を上げた。

「行ってらっしゃい」

 どうしてもうまく笑えない私は、それを誤魔化すように彼に口づけた。

 背伸びをして、ほんの一瞬触れるだけの、キス。

「大好きよ、悠久」

「俺も、愛してるよ」

 その言葉が最後。

 央さんが言ったように、悠久は帰ってこなかった。

 スマホも通じない。

 私は、独りになった。
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