三羽雀

懐柔の試み

 翌日、仕事を終えた幸枝は本社の前に腕を組んで立っていた。
 あと十分もすれば長津が来る筈である。他の社員に見られぬよう終業後に会うことを提案したのは、幸枝の画策だ。
 (これも仕事のうちに入ると良いのだけれど……流石に私用かしら、区分が分からないわ)
 じりじりと照りつける西日に目を細め、なお生温い風を受ける肌に浮かんだ汗を拭う。
 受付係は帰り守衛も部屋に篭っている終業後の本社の玄関は、普段の忙しなさとは真逆のがらんどうであった。
 (いつもは五分も十分も早くあのお仕事に就くのに、今日という日は随分と遅いのね)
 腕時計の針は二十九分を指している。
 呆れた様子で再び腕を組んだ幸枝は、一度本社の前の通りを見渡してみた。
 (……あの姿なら昼間に呼んでも良かったじゃあないの)
 五時三十分になったその瞬間、橋の向こうからやって来たのは長津正博その人である。
しかし彼は「仕事」の時に見る軍服姿ではなく、昨日と同じパナマにスーツで、七三分けが妙に似合っていた。その出立ちは一等地に勤めるサラリーマンか経営者のようである。
幸枝はすでにその姿を見て長津だと確信していたが、敢えて出迎えず本社の前で待ち続けていた。
 「やあ」
 「三階へご案内いたします」
 パナマを取って会釈をした長津を他所に、幸枝は構わず階段を上がっていった。
 重役の部屋の揃うこの階層はどこか張り詰めたような雰囲気が漂っている。
 幸枝は右手の二番目の部屋の戸を開けた。
 「こちらへどうぞ」
 他人行儀な振舞いに違和感を覚えた長津であったが、彼自身もその理由は自覚している。
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