*結ばれない手* ―夏―
「あいつが高校まで体操の選手だったことは知っておるの? 将来をオリンピック選手として有望視され、大学にも推薦での入学がほぼ決まっておった。が、高校二年の秋、二つ年上の兄さんが心の(やまい)で亡くなり、突如として桜の後継者に指名されてしまったんじゃ。凪徒は体操をやめさせられ、大学も次期経営者としての道筋に変えられた。それでもあいつは自分の夢を諦めて、一度はそれに従う道を選んだんだ……それが母親の希望だったからの」

「お母さんの……?」

 コーヒーカップに伸ばそうとしていた暮の手が止まる。

「あいつの母親は凪徒を産んだ際に身体を悪くして、ずっと家で()せっておったそうだ。だから凪徒の生活は、一番に母親を大切にしたものだった。それでなくとも息子を一人失った母親の悲しみとはいかほどのものだったのか、きっと思い知らされたのだろうの。凪徒は兄の分まで母親を愛そうとした。家業を(にな)い、立派な代表者となれば──が、兄に続いて二年後、母親も病が悪化して他界してしまったんじゃ」

「……」

 暮は一度カップを手にしたものの、それに口を付ける気にはなれなくなった。

 立ち込める香ばしい香りが鼻腔を漂い、やがて喉元で苦々しい空気となった。


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